応仁の乱は戦国時代になぜつながっていったのでしょう

応仁の乱がなぜ戦国時代につながるのでしょう

 

応仁(おうにん)元年、西暦1467年に始まったとされている日本国内の戦争、応仁の乱。国内の様々な勢力がこの争いに関与したと言われており、すぐに決着がつかず、10年間も続いてしまいました。京都は戦いの中心となって大変荒廃したそうですが、戦いの場となったのは京都だけではありません。対立関係となった諸勢力が様々な場所で戦いました。この応仁の乱は有力な武装勢力の指導者が亡くなったことを理由に収束していきます。応仁の乱はそうして終わるわけですが、この後日本の世の中は戦国時代に入ったと言われています。応仁の乱という大規模な争いが収束したのになぜその後戦国時代が到来するのでしょう。本来国をまとめることを任されていた室町幕府が相手にされなくなったからだという見方が多いようです。

 

スポンサーリンク

応仁の乱を経て

 

応仁の乱が収束するまで10年という長い期間が経過しました。様々な勢力がこの間戦いをおこなう過程で室町幕府が戦争を終了させるために機能しなかったようです。室町幕府は守護(しゅご)という地方を治める役職を設け、しかるべき人物を任命し地方に派遣することをそれまでしてきたのですが、幕府の役人であるはずの守護も応仁の乱で戦いに加わり戦いを早期に終わらせるような働きをすることはできませんでした。幕府が求める任務を遂行できないのであれば幕府が強制力を発揮して地方の武装勢力に無理矢理幕府の言うことを聞かせるべきところなのでしょうけれど、当時の室町幕府にはそういった力は無かったようです。応仁の乱が始まった頃の室町幕府の将軍は足利義政さんというかたで、応仁の乱の途中で将軍の座を息子の義尚(よしひさ)さんに譲ることとなりますが、義政さんも義尚さんもすみやかに停戦させるために一貫した命令を出したり、戦いをやめようとしない勢力を将軍自らの軍勢を率いて討伐するような、そういった行為はしませんでした。義尚さんは応仁の乱が終わる頃、まだ幼少だったのでそもそも無理な話かもしれませんが。中央からの縛りもそれほど無く、地方の勢力は好き勝手に戦ってしまったわけです。中央である室町幕府の命令に従わなくても大した罰がくだるわけじゃないや、ということで幕府は応仁の乱が始まる以前に比べ地方の勢力から相手にされなくなってしまいました。中央である幕府が国を平和に治めることが出来ないのなら秩序が無い状態ということになります。自分たちの身を守るためには幕府を頼っても仕方がないということで地方の諸勢力は他の勢力から攻撃されても自分たちの力で撃退し生き残ることができるように自分たちの勢力の拡大を図るようになっていきました。こうして様々な地域で領地拡大を目指した戦いが繰り広げられてしまう戦国の世になっていきました。

 

スポンサーリンク

本来であれば

 

戦国時代を経て豊臣秀吉さんが天下統一に成功しますが秀吉さんの場合には惣無事令(そうぶじれい)という諸勢力に戦いを停止させるための命令を出しましたし、秀吉さんの統治に対して言うことを聞かない、指示に従わない勢力に対しては明確な武力行使をおこないました。関東の有力戦国大名、北条家を秀吉さん側の軍勢が討伐した小田原攻めや九州の有力大名の島津家を秀吉さん側の軍勢が討伐した九州征伐も中央権力が実力行使して地方の勢力を従わせた出来事でした。秀吉さんに滅ぼされてはかなわないということで国内の様々な戦国大名は秀吉さんに従っていくことになります。このように中央が力を持っている場合は強制力を使って否応なく言うことを聞かせたわけですが、室町幕府の当時の権力者はそういったことが出来ませんでした。

 

スポンサーリンク

今回は応仁の乱からなぜ戦国時代に移行したのかについて取りあげました。室町幕府が滅亡するのは織田信長さんが足利義昭さんを京都から追放する天正元年、西暦1573年とされているようですが室町幕府がありながら応仁の乱の後戦国時代が到来するのはなぜなのかしっくりこなかったので確認してみたく、今回のようなテーマの記事を作ってみることとした次第です。中央がしっかりと言うことを聞かせる力を持たないと地方で戦争の起きてしまう危険性が出てくるものなのですね。戦争が起きれば当然戦場となる地域の住民は戦争に参加していなくてもひどい目に遭ってしまいます。権力が機能しないと武装勢力の構成員に限らず、様々な人々の命が奪われることになりかねないわけです。国家権力を否定するような主義主張も世の中にはあるようですが、そういった国をちゃんと治める力が無かった場合、それはそれで大変困った事態に陥ることになります。権力を否定する主義主張に賛同することは出来ないなと、この記事を作っていて感じました。戦国時代を終わらせることも出来なかったのに、天正元年、西暦1573年までよく室町幕府が続いたものです。国内の諸勢力にとって権威という点では室町幕府に一定の利用価値がまだあった、あるいは幕府を潰すような大きな勢力が誕生するには長い時間が必要だったということでしょうか。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

応仁の乱について触れている他の記事「応仁の乱の原因は簡単に言うと何だったのでしょう」はこちらです。

天下を統一する勢力というのはどう対応するものなのかという一例「島津家と秀吉さんとの戦いはどのように経過したのでしょう」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る