応仁の乱の原因は簡単に言うと何だったのでしょう

応仁の乱の原因は簡単に言うと

 

応仁の乱(おうにんのらん)は応仁元年、西暦1467年に始まったと言われている日本国内の戦争です。この戦争、すぐに終結せず、大体おさまったのは文明九年、西暦1477年だったとされています。10年間続いた戦争で都も荒れてしまい、室町幕府はあるものの国内をしっかりと治めることは難しくなっていき、長く続く戦国時代が到来してしまう、そんなきっかけの戦争にもなったようです。この応仁の乱という戦争、何が原因となって起きてしまったのでしょう。簡単に言えば、時の室町幕府の将軍が態度をコロコロ、とまではいかないかもしれませんが、一貫した方針をとらなかったからだと言えるでしょうし、室町幕府という組織のいくつかの階層(レベル)で深刻な対立が同時に存在していたからだとも言えるかと思います。本当に簡単に言うとしましたら、この程度くらいのことで説明を終えたほうがいいかと思いますが、以下の項目ではもう少し補足してみたいと思います。

 

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室町幕府将軍はどなた

 

応仁の乱が発生した時期、国内の武家社会の頂点であるはずの室町幕府将軍の座についていた人物は足利義政(あしかがよしまさ)というかたでした。室町幕府が誕生してから8代目の将軍にあたります。7代目の将軍は義政さんのお兄さん、足利義勝(あしかがよしかつ)さんでした。しかしこの方は10歳に満たない年齢でお亡くなりになってしまい、弟である義政さんが将軍となった、そのような経緯があります。第6代将軍足利義教(あしかがよしのり)さんは義政さんの父親でありこの方は暗殺されています。このように義政さんの周囲では身近な方々が不幸な亡くなりかたをしていました。たまたま将軍に就任したとも言える義政さん、あまり将軍として国内政治を仕切ることには関心を示さなかったという指摘は多いようです。

 

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いろいろな対立

 

この応仁の乱、大まかに見ても重要な対立関係が3つはあります。1つは将軍の後継を巡る対立。2つ目は管領(かんれい)職を担当する重要な家系内の後継を巡る対立。3つ目は実力のある武装勢力間の対立です。1つ目の将軍後継を巡る対立ですが、義政さんの次に誰が将軍となるかで義政さんの弟である足利義視(よしみ)さんと義政さんの息子さん、足利義尚(あしかがよしひさ)さんが対立してしまいました。2つ目の対立ですが室町幕府という組織には管領という将軍担当者を補佐し政治をまとめる役職がありました。この役職を担当することの出来る家系は一時期以降三家系のみとなっていました。そのうちの家系、畠山(はたけやま)家で対立が起きました。畠山家の当主に誰が就任するかで先代の当主のお子さんである畠山義就(はたけやまよしひろ)さんとこの方のいとこにあたる畠山政長(はたけやままさなが)さんが対立しました。3つ目の対立は有力な武装勢力の指導者だった人たちの対立で一方は守護大名の山名宗全(やまなそうぜん)さん、もう一方は守護大名の細川勝元(ほそかわかつもと)さんです。主導権争いがこのお二人の間には存在しました。このような対立関係が同時期に存在しており、一方が足利義尚さんと畠山義就さんと山名宗全さんの勢力、もう一方が足利義視さんと畠山政長さんと細川勝元さんの勢力という風にきれいに二つに分かれた状態となって対立構造が激しくなったようです。

 

義政さんの姿勢

 

先ほど述べました室町幕府第8代将軍の義政さん、彼は結果的に事態を混乱させています。義政さんにお子さんがいなかったことで次期将軍は弟さんの義視さんにすることが決まったのですが、その後にお子さんの義尚さんが産まれ、お子さんと弟さんのどちらを次の将軍にするかで速やかに結論を出せなかったようです。また畠山家の後継問題についても一時は畠山政長さんが家督を継ぐことを認めていたのですが、その後義政さんは畠山義就さんの当主就任を認めるという風に態度を一転させています。畠山家の対立では応仁の乱以前に武力衝突が起きていましたが義政さんの態度の変化で更に対立が深まりました。

 

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今回は応仁の乱の原因について一部取りあげました。戦国時代の話をしばらく扱うことが多かったのですが、時代を少しさかのぼって戦国時代に至る前の有名な出来事である応仁の乱について調べてみようと思いこのようなテーマの記事にしてみました。この出来事はいくつかの対立構造が結びついてしまい大きな戦になってしまったようです。将軍義政さんが指導力を発揮できればよかったのでしょうけれど、言うことを聞かせたくても周りが将軍の意向にしっかりと従うような時世ではなかったということなのかもしれません。上でも触れましたが室町幕府の第6代将軍が有力な武装勢力に暗殺されてしまうような時代だったようですから。各地を統治する役目を幕府から与えられていた地方官であるはずの守護大名が影響力を強めていたようですので、将軍がしっかりと国をまとめ上げるためには守護大名など他の武装勢力が及ぶことの無い、強力な将軍固有の武装勢力が必要だったということなのかなぁなどと感じました。強い武力を持たないのに国をまとめろと周囲から求められる当時の将軍職の方は気の毒な立場だったという見方も出来るのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

室町幕府将軍がかかわってくる話「織田信長さんと足利義昭さんが対立したのはなぜなのでしょう」はこちらです。

他の国、別の時代の体制が崩れていく出来事について触れている話「辛亥革命とは?革命が起きた原因や袁世凱についても」はこちらです。

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