新王朝が滅亡した原因とも言える反乱とは?

新王朝が滅亡する原因となった反乱

中国大陸の古代の出来事や漢の時代の歴史、王朝の滅亡などといった話に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では前漢が滅んでしまった後に誕生した「新」という王朝が短期間で滅亡してしまうこととなった原因とも言える反乱について自分なりに書いてみたいと思います。高校の教科書的には新が倒れてしまう際によく触れられている反乱があり、赤眉の乱(せきびのらん)と言われています。この反乱が大規模なものとなり新の軍隊が制圧出来なかったことで都も反乱側に支配されて皇帝であった王莽(おうもう)さんも殺されてしまう結果となり、新王朝は極短期間で滅びるというわけです。短期間で滅びた王朝とはいっても一時は大陸の広範囲を支配統治していたわけですからたくさんの兵員からなる軍勢を抱えていたはずです。王朝の大軍を相手にして反乱軍が敵うというのも大変不思議な気がしますが、実際反乱側が勝ってしまうんですね。この赤眉の乱、発生したのが西暦18年でこの反乱が鎮圧されたのは西暦27年です。新王朝が滅びたのは西暦23年でした。ということで新が滅んだあとも反乱活動を続けていたことになります。新の後に誕生する国は後漢です。この王朝が成立したのは西暦25年。結局赤眉の乱は新王朝では対応しきれず、そのあとの後漢王朝がようやく鎮めたということになります。約10年続いた赤眉の乱。そもそもどういったことがきっかけで反乱となっていったのでしょう。この赤眉の乱にさきがけて発生している一地方の武装蜂起がよく関連付けて説明されることが多いです。武装蜂起した中心人物の名前から呂母の乱などといわれているようです(呂母は「りょぼ」と読みます)。西暦17年に発生したそうです。高校の世界史で扱うのは赤眉の乱止まりだと思いますので、呂母の乱はまったく受験に出ることは無いのでしょう。しかしこのサイトは受験対策のサイトでは全然ありません。運営者の趣味でやっているためこの呂母の乱という出来事を敢えて取り上げてみたいと思います。今回の記事のタイトル、新王朝が滅亡した原因とも言える反乱とは?に対する答えは世間一般で言えば赤眉の乱ということになるのでしょうが、呂母の乱も主な原因とは言えなくても、原因の一つと言えるのではないかなと個人的には感じています。

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呂母さんの個人的な事情から武装蜂起へ

舞台は都から離れた中国大陸山東半島の南部です。その地域に呂母(りょぼ)さんという女性がおられました。酒造業を営み、それなりに生活は出来ていた方だったようです。この女性には息子さんがいて地域を管轄する県のお役人をされていました。この息子さんが何らかの罪を犯したと言われています。具体的に何をしてしまったのかについては調べた範囲では不明だったのですが、少なくとも死刑になるような罪では本来なかった。その点は多くの人々が指摘しています。何か軽い罪をしてしまっただけなのに県の偉いお役人の判断で死刑に処せられてしまいました。息子さんの命を奪われてしまった呂母さんは死刑を決定した役人を大変恨みました。納得のいかない事情が息子さんの死刑に至るまでの経緯の中に存在していたということなのでしょう。しかし高齢の女性が単独で地方行政のトップのような人物を襲撃するというのも無理な話です。先ほども言いましたが呂母さんは酒造業を営んでいました。そのため呂母さんは自分のところで製造しているお酒を求めに来る若者に対し、金の支払いは後日で構わないとして気前よくお酒を若者たちに与えました。また貧しいためにまともに服も買うことの出来ない少年たちに衣類を買い与えるなどして大変感謝されたようです。しかしそんな気前のいいことを続けていたために、呂母さんの持っている資産も底をついて、呂母さん自身が貧しい境遇となってしまいました。呂母さんから酒をもらっていた若者たちはさすがにお金を支払わなければまずいだろうと呂母さんのもとにお金を持っていきます。お金を支払うよと言ってくれる若者たちを前に呂母さんは自分の本心を打ち明けるのでした。私を心配しお金を持ってきてくれてありがとうね。しかし私を気の毒に思ってくれるのであればどうか私の仇を討つ手助けをしてはいただけませんでしょうか。大切な息子の命を奪われた呂母さんの話を聞き、若者たちは呂母さんに協力することを約束しました。若者たちも当時の社会の中で恵まれない境遇にいたものが多く、役人たちに対する不満を持っていたそうです。若者たちは呂母さんに助太刀することを引き受ける者たちを集めます。最終的にはその数は数千人規模にもなったそうです。呂母さんを中心としたこの勢力はついに武装蜂起し役所を襲撃。息子さんの命を奪った役人の身柄を確保し処刑します。呂母さんはその首級(しるし)を亡き息子さんの墓前に示し、息子さんの恨みは確かに晴らしたと報告するのでした。これが呂母の乱と言われる出来事の大まかな内容です。

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恨みを晴らしましたが

呂母さんや息子さんの個人的な恨みはこれで晴らされることとなったのですが、反乱を起こした若者たちはこれで矛を収めようという考えにはならなかったようです。調べた範囲では呂母さんは復讐を果たしてから間もなく亡くなったとも、呂母の乱から5年後に亡くなったという話もあるようで定かではありません。いずれにせよ呂母さんは反乱活動の中心からは身を引きました。戦いを続けようとする者たちは山東の別の地域で山賊をするような者たちと合流することとしました。山にこもって新王朝の軍と対峙します。身を隠しながら戦う呂母の乱残党や山賊(これ以降山賊勢力と便宜上呼ばせていただきます)に新王朝軍は手を焼き、鎮圧することは出来ませんでした。そのような折り、山賊勢力が活動していた地域である徐州(じょしゅう)や青洲(せいしゅう)に大変深刻な飢饉が発生してしまいました。徐州や青州と書いてある資料を見てチンプンカンプンな私でしたが、これは結局現在の山東省、山東半島のある地域と考えていただいて大きなズレはありません。そういった地域で全然作物が育たない事態が発生してしまいました。この時作物が出来なかった理由は確認できませんでしたが、現在から振り返って割と近い歴史の中でも干ばつ、つまり雨が全然降らないような状況やイナゴの大発生による作物被害といったことが山東省では起きているようですのでこの時の飢饉も深刻な雨不足や虫の害が理由だったのかもしれません。農民の方々は自分の担当している土地で作物が育たず食べるものに事欠く状況でしたが、政府からの税負担は例年同様要求されてしまい、どうにも首が回らなくなってしまいます。新王朝はこの大変な飢饉に効果的な対策をとってはくれなかったため、たくさんの農民が作物も収穫できず、税を納めることも出来ず追いつめられて自分たちの土地を捨てて流浪の民になってしまいました。あてもなくさまようしかない農民たちのかなりの数があの山賊勢力に合流。膨れ上がった勢力は万単位の人々となり、ひしめき合うこととなります。しかしこんな大量の人々が食べていく食料を自分たちで農作業をして賄うことも出来ず、食料のあるところから略奪して済ませていました。彼らの振る舞いが目に余るということで新王朝軍が10万もの軍勢を引き連れて討伐しようとします。敵味方共に大軍ですから山賊勢力は自分たちの兵に眉毛を赤く染めさせることで敵味方を識別し王朝軍と戦いました。数で見れば劣勢であった山賊集団が何故か勝利。この王朝軍の敗北によって政府の力など大したことは無いと判断した様々な勢力が各地で反乱を起こしていきました。この眉毛を赤くして戦った山賊集団が赤眉軍と言われ、赤眉の乱と名がついた由来になっています。

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今回は新王朝が滅ぶ理由とも言える反乱について一部取り上げました。前回の記事では新王朝の皇帝、王莽さんがどういった政治をしたのかについて書いてみました。儒教の経典の中にある古代のしきたりを参考にした政治をしたことであおりを食う人々が出てきてしまい、それで不満が爆発して王朝が短期で滅んだということで一応理解はできるように思いましたが、この王朝が滅んでしまう直接的なきっかけについても確認してみたく、原因と思われる反乱をテーマにして記事を作ってみようと思いました。呂母の乱の原因について言えば、罪状に見合った適切な刑が科されていれば反乱は起きなかったのでしょうけれど、県のトップが首をかしげる裁量をしたことで極刑が執行され一個人の大変な恨みを買うことになりましたし、山賊集団が眉毛を赤くして新王朝軍と戦うことになったそもそもの理由は飢饉に対し新王朝が対策を取らなかったことだったと言えるようにも思います。不適切な刑罰、飢饉発生時の無策。確かに当事者の立場になってみれば不満も爆発してしまうものなのでしょうね。納められる収穫物が何も無く、食うにも事欠いている状況で年貢を納めろと言われれば、身に余る借金を背負って金を集めて農作物を買い役所に税として納めるか、どこかに逃げてしまうくらいでしょうか、出来ることと言えば。こういった中国大陸が前漢、新といった時代だったころから見れば日本の戦前の昭和の時代など非常に最近起こったことだとも言えるでしょうが、そんな最近の時代でも困窮が社会的な混乱を引き起こすきっかけとなっていたと言えなくもないなと感じます。昭和十一年、1936年の2月に発生した2・26事件は決起部隊が宮中の重臣や政権を担当している政治家、議会、財閥など当時大きな影響力を持っていた立場の人々のしていることを否定して天皇親政の軍事政権を樹立することを目的としていたわけですが、そもそものきっかけは世界的な恐慌や凶作で大変な窮状にさらされた農民の方々に対し、政府がしっかりとした救済策をとっていないと青年将校たちが判断したからだったという指摘もあるようです。何らかの理由で困窮してしまった人々を政府は放置するのではなく、しっかりと人々を立ち直らせることが出来るような政策をうつことが結局は社会の安定につながって社会全体の利益にもなるということでしょうか。飢饉対策をしっかりうっていたら新王朝の寿命はもう少し長かったのかもしれません。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。

別の時代の異なる国で行われた飢饉対策について触れている話「江戸時代には飢饉の対策としてどのような事をしたのでしょう」はこちらです。

江戸時代の日本で起きた反乱について触れている話「江戸時代になぜ大規模な一揆が島原で起きたのでしょう」はこちらです。

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