前漢王朝と後漢王朝の間にはどの様な時代があったのでしょう

前漢と後漢の間の時代

古代の中国大陸で起きた出来事、中国大陸にかつて存在した王朝の歴史、前漢、後漢を問わず、漢王朝に関係した話題などといったことに関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事ではかつて中国に存在していた前漢という王朝が滅亡してから後漢と呼ばれる王朝が誕生するまでの間の期間はどの様な時代であったのかということについて私なりに書いてみたいと思います。この前漢と後漢の間に存在する期間というのはどれくらいの長さなのかについてですが、前漢王朝が滅亡したのが紀元後8年といわれています。そして後漢王朝が誕生したのが紀元後25年とされていますので、間の長さは17年間ということになります。中国大陸の古代の王朝が続いた期間というのは何百年というのがざらですので、17年というのは一時代として見れば大した長さと言えません。この時期、中国大陸はどの様な状況にあったのでしょう。周王朝が倒れた後、あるいは秦王朝末期から漢王朝誕生までの間のような、ずっと戦いに明け暮れた時代というわけではありませんでした。前漢でも後漢でも無い王朝、「新 しん」という名の王朝が大陸の広大な地域を統治していたとされています(ただ新王朝の末期には大規模な反乱が発生し国内は戦いで混乱していました)。新王朝の王様と言いますか皇帝、最も偉いとされていた人は王莽(おうもう)という人です。前漢王朝末期、王莽さんは前漢の第14代皇帝である平帝(へいてい)さんがまだ幼若であることから摂政に就任したという話もありますが、とにかく統治を補佐する重要な役割を担当していました。そんな重要な立場にあった王莽さんは平帝さんを毒〇。2歳だったといわれる前漢の皇族を利用して自分が皇帝に指名されたなどと偽り、新しい王朝を誕生させ前漢を滅ぼしてしまうのでした。その後の17年間はこの王莽さんが帝位にあった時代であり、王莽さん一代で新王朝は滅びることとなります。短期間で滅ぶ王朝、新。王莽さんはどのような統治をしていたのでしょうか。高校の歴史では復古主義、古代の王朝の仕組みに戻そうと試みたとか当時の国内の状況に合わない政策を推進しようとして民衆の反発を招いたといった説明がされているようです。

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大昔の王朝を模範にしようとしました

新という王朝を立ち上げた王莽さんはかつて存在していた王朝、周王朝の仕組みを理想的な制度と考えていたようで、役職の名称も周王朝時代のものを持ってきて採用していたのだそうです。儒教の経典の一つに周礼(しゅらい)というものがあり、周王朝の官僚制度が書かれているそうですが王莽さんはこの経典を重視したようです。土地に関する政策も周王朝時代の政策が模範とされ、井田制(せいでんせい)なるものが取り入れられました。ちょっと正方形の土地を想像していただきたいのですが、決められた大きさの土地を上から見て井の字型になるように区分します。言い方を変えますと、正方形の縦横の辺をそれぞれ三等分にして大きな正方形の土地を合計九つの小さな正方形に区分します(このような区分の仕方をすると上から見たら井の字型に見えますよね)。大きな正方形の中で区分された外側の8つの区画は8つの世帯に分配し、それらの土地で農作業することを許しました。大きな正方形の中心に存在する小さな正方形の区画については政府に納める収穫物を栽培する土地として周囲の8区画で農作業する8つの世帯が協力して農産物を耕作するということになっていました。基本的に土地は国のものであるとして一般庶民の所有物として売買することは禁止されてしまったそうです。また、所有することが認められる土地については広さが制限されてしまい、決められた広さ以上の土地については国に取り上げられ親族や近隣の人々に分配されました。前漢の時代に成功した豊かな農業従事者は貧しい農民から借金の担保などで土地を得るようになり、たくさんの土地を所有する者もいたようですがそういった富裕層が新の政策によって割を食うことになりました。先ほど説明しました井田制についてはかなり不評だったそうで、たった三年で中止となりました。当時の儒教の専門家の方々が理想的な土地制度として評価していた仕組みのようですが世間の評判は全く違うものとなってしまいました。官僚制度の名称や土地制度などで周王朝を参考にしたのは王莽さんが儒教の信奉者だったからでした。儒教では周の一時期の政治が理想化されていたため新王朝の政治の参考にしようとしたわけです。

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世の中の実情と合わない政策を実行

上の項目の政策、土地政策にしても現実の世の中の状況とはかみ合わない政策であったわけですが、その他にも人々から不満が出てきそうな政策を実施しました。その政策の一つに商業の規制があり、高校の歴史教育でもサラッと触れることがあるようです。どのように規制したのか。五均とか六管といった仕組みを設けました。五均というのは長安や洛陽(らくよう)など当時の国内で大変大きかった都市に専門の役人を配置し地域の商工業者から税を徴収したり、物価が大きく変動しないよう介入させるというものだったようです。物価が高い時にはお役所が倉庫に蓄えておいた物資を市場に売り出して物価を下げて、物価が安い時には一般民衆の自由な物資の売買に任せたというものです。物価を安定させるので人々の暮らしには役に立ちそうですが、国が商行為に介入するため中には利益を得にくくなる商人も出ることになりました。税を徴収されるというのは当然商工業者から見れば負担ですし出来れば税など無いほうがいいと思うことでしょう。六管というのは貨幣の鋳造や有名な山岳、広大な湿地などを国が管理し、それにとどまらず、人々の生活に欠かせない物資である塩や鉄、それからお酒といったものを国の専売とする制度でした。塩やお酒、鉄の販売を国がおこなうというのですから、かねてからこういった物資で商売をしていた人たちは国に商売の邪魔をされてしまったことになります。また、王莽さんはたびたび貨幣を変更したことでも知られています。使い勝手の良い貨幣であればいいのですが、円形の貨幣に刃物のような形の突起を付着させたような風変わりな貨幣を導入するようなこともありました。流通していた漢の時代の貨幣を迷信じみた発想からわざわざ禁止し新たな貨幣を導入したそうなので人々にとっては面倒なこととなりました。また王朝が出した法律に違反した場合、奴隷身分となってしまうという仕組みが存在したそうで、国の奴隷になってしまう人が増えていきました。その一方で民間の奴隷については売買を禁止するという一見良識的な政策も行われていたようですが、国の奴隷となる人が増えるのですから奴隷となってしまった人々は国の政治に当然不満を持ったことでしょう。

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今回は前漢と後漢の間の時代、新王朝について一部取り上げました。古い時代から始まってなるべく起きた順にその時々の出来事をテーマにして記事を書こうと思っています。前漢と後漢の間の時代は短期間ですので省いて次の時代、後漢の話題に移るのも一つの考え方ですが、一応どのような時代であったか確認してみたい思いもあり今回のようなテーマの記事にしてみました。この記事の本文で取り上げた新王朝の政策は人気の無いものばかりでしたが、王莽さんは国内に儒教関連施設を積極的に造ったそうですので儒教の学者さんからは一定の支持はあったのかもしれません。しかしそれを上回る反発が強まり、末期には大きな反乱、赤眉(せきび)の乱が発生して国内が混乱し、これに乗じて地方の有力者も中央政府に対して刃向かいます。中央政府は事態を収拾することが出来ず新王朝は滅びることとなりました。たとえ主君の命を毒で奪うことまでして自らが最高権力者になったとしても、未来がバラ色になるかというと、決してそうとは限らないものなのですね。おこなう政治がまずければ後々と言わず自分の代で王朝が滅びてしまうこともあるという、なかなか貴重な事例のようにも感じます。政治がまずいといえばこの王莽さんがトップの時代、王朝は周辺諸国との間で摩擦が強まったと言われています。王莽さんは中華思想、中国大陸の広範囲を支配下におさめる我が王朝は世界の中心であり周辺の国々よりも優れているという考え方が強かったそうで、周辺の国々の王様のことを王と呼ばず、それよりも格下の「候」と位置付け、扱いを低くするという政策変更をしました。これに反発する周辺の国々の王様もいたため、言うことを聞かない王の命を奪ったり反発した国に軍を派遣して侵攻しようとすることもあったそうです。無駄に周辺諸国の気持ちを逆なでしてまで自国の自尊心を高揚させても大して得なことは無いような気がしますが、儒教を信奉していた王莽さんは儒教の考え方とそれなりに関係があるという見方も多い中華思想についても、それが真理だと自信を持っていたのかもしれません。今回の記事を作っていて儒教という用語をたびたび目にすることとなりましたが、儒教には重要な教えもたくさんあるにもかかわらず何かズレた用いられ方を王莽さんにされてしまっているように感じました。ひどい政治は虎よりも恐ろしいといった意味の発言を孔子先生は残されていますが、そんな儒教を信奉しているはずの王莽さんが結果的にひどい政治をしたというのは皮肉なものですね。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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