乙巳の変いっしのへんと大化の改新の違いは何なのでしょう

乙巳の変と大化の改新の違い

乙巳の変や大化の改新に関心を持たれてこのページに来られた皆さんこんにちは!この記事では乙巳の変と大化の改新の違いや乙巳の変に関連する話題について私なりにまとめてみたいと思います。さて記事の題にした「乙巳の変」の読み方、「いっしのへん」ですが別の読み方に、「いつしのへん」、「おっしのへん」もあるようです。正直乙巳の変という歴史用語を私はこれまで聞いたことがありませんでした。大化の改新(たいかのかいしん)は大変有名な出来事として小学校や中学校でも扱われた事項かと思います。乙巳の変というのは一部の皇族のかたが協力者を得て、当時の政治に大きな影響力を持っていた有力豪族のリーダー格の人物たちを暗殺したり、死に追いやったという出来事を指しています。西暦645年に発生しました。具体的には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らが蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺したり蘇我蝦夷(そがのえみし)を自害に追い込んだという出来事です。一方大化の改新というのは時の政権、朝廷が天皇を中心とした政治体制にするため実施した政治、政策上の大きな変更を中心としている出来事を指しています。この大化の改新に蘇我氏の重要人物を暗殺した出来事を含むかどうかは人によって見解が異なっていて定まっていない印象です。ということで乙巳の変と大化の改新が意味している内容は一方が蘇我氏を権力の座から引きずりおろすための争いということであり、もう一方は政治、政策の改革ということになります。ということで乙巳の変は政治改革の意味を含む用語とはなりません。

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大化の改新の場合政治改革が本質で、蘇我氏の重要人物の暗殺、自害への追いこみといった出来事を含む場合もありますが、含まない場合もあるということになります。非常に似た時期の話を指している用語ですが、そのような意味の違いがあります。大化の改新とはどんな政治改革なのかについては先日の記事で取りあげましたが、この国の土地はすべて天皇のもの、この国で生活している人々も天皇のもの(公地公民 こうちこうみん)といった制度の導入や天皇のものである土地を人々に貸し与え農業に従事してもらい収穫物の一定割合を税として政権に納めてもらうという仕組みにしたことや特定の人に対して課すことになる庸(よう)や調(ちょう)などといった税負担の仕組みを整えたり地方を60以上の地域に区分し各地方に朝廷から地方を統治するための人材を派遣して朝廷の意向に従わせるといったことが推し進められました。大化の改新が始まったのはいつということに関しては人によって乙巳の変を含む西暦645年からと見る人もいれば、政治改革をおこなうと天皇が世の中に表明する改新の詔(かいしんのみことのり)が出された西暦646年からと見る人もいるようです。

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乙巳の変がどうして起きてしまったのでしょう

日本を天皇が中心となる体制、天皇に政治的な権限が集中した体制にする以前は皇族の方々を凌ぐような政治的影響力を持つ一族が存在していました。蘇我氏と呼ばれる一族がそれなのですが、彼らは天皇の後継についても自分たちにとって都合のいい人物を次の天皇にするよう手を加えることが出来、場合によっては今後天皇となる最有力候補となる人物であっても自分たちに都合が悪い人物(天皇候補となられている方ですから当然皇族の方です)であれば武力を用いて襲撃し死に追いやるようなこともおこなっていました。皇族に対してもはばからずにそのようなことをやってしまう蘇我氏に対しては一部皇族やお役人たちが非常に強い不満を持っていました。このような一部の豪族が幅を利かせているような状態であっては天皇が中心となる政治体制を整えることはやはり困難です。そのため中大兄皇子や中臣鎌足さんらは蘇我氏の影響力を排除するしかないと考え、蘇我氏の中心人物、蘇我入鹿という人物を暗殺し、彼の父親である蘇我蝦夷を自害に追い込む結果となりました。

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今回は乙巳の変、大化の改新について一部取りあげました。個人的には馴染みのない乙巳の変という用語でしたが、昔自分が学校で習った大化の改新と大きく重なっている話のようです。当時習った印象では大化の改新というと中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺する出来事が中心になっていたような気がするのですが時代が変わって歴史の教育内容もこういった感じで変化していくものなんですね。念のため乙巳の変について内容を確認したく今回のような関連したテーマで記事を作ってみました。権力者の後継を自分たちの都合の良いようにするなどという話は鎌倉時代に北条家の人たちが将軍職にある人を死に追いやったりした出来事がありましたし足利尊氏さんが後醍醐天皇と対立して自分たちに都合のいい天皇を新たにすえるなんていう話もありました。乙巳の変も権力の奪い合いを象徴した出来事の一つということになるのでしょう。リーダー格の入鹿さんや蝦夷さんが命を落としたことで有力豪族、蘇我氏は急速に影響力を弱めていくこととなりました。確かに大化の改新以降奈良時代や平安時代で蘇我という姓が付く人物を政治的な分野の出来事で連想することが出来ないように思います。当時相当な影響力を持っていたと言われている蘇我氏ですが柱となる人がいなくなると、こういうことになるわけですから一時の繁栄と言ってもはかないものなのですね。絶好調な時に傲慢なことをすると痛い目に遭うといったところでしょうか。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

大化の改新について扱っている他の記事「歴史で出てくる大化の改新について簡単にまとめてみました」はこちらです。

別の時代の天皇中心の政治について触れている話「鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇はどんな政治をしたのでしょう」はこちらです。

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