三国時代の強国「魏」が滅亡した理由は何だったのでしょう

魏が滅亡した理由

古代の中国大陸の出来事、大昔に存在していた王朝の歴史あるいは三国志で描かれているあたりの時代に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では中国大陸の広大な地域が魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)という国に分裂していた時代、三国時代に、もっとも強大だった国である魏が滅亡してしまった理由について自分なりに書いてみたいと思います。魏が建国された、後漢に従属した一領地ではなく王朝として誕生したのは紀元後220年でした。前回の記事では建国者が誰であったかについて書かせていただきましたが、少し振り返りますと、建国者は有名な曹操(そうそう)さんではなく、その息子さんにあたる人物の曹丕(そうひ)という方でした。それ以降曹丕さんの子孫たちが魏王朝の皇帝を担当していくこととなります。それで、どれくらいの期間この王朝が続いたかというと、前の記事でも触れたとおり45年間。紀元後265年に滅んでしまったのでした。その前の王朝、後漢は紀元後25年から220年まで続いたのですから約200年間。その前の王朝、王莽さんを皇帝としてあおぐ「新」はたったの15年で終わりましたが、その前の前漢が紀元前202年から紀元後8年までですから210年、約200年間。その前の秦も短いと言えば短いですが、春秋、戦国時代という混乱期をさかのぼれば周王朝が何百年も続いていました。何百年と続くことも珍しくはない中国大陸の王朝の中で魏はどうして半世紀も持たなかったのでしょう。軍事力では同時代に存在していた他の二カ国、呉や蜀よりも本来で言えばよほど強いと言われていました(有名な戦いで呉や蜀に負けてしまうことは確かにありましたけれど)。魏が滅んでしまったのは国自体の軍事力が弱体化してどこか別の国と戦をして大負けしたからではありませんでした。魏国内で発言力を持っていた勢力が皇帝の座を皇族である曹一族から実質的に奪ってしまったせいで、この王朝は滅んでしまったのでした。短期間で滅んだと言っても継承されていた皇位は五代を数えます。最後の皇帝は司馬(しば)氏という一族の当時の有力者、司馬炎(しばえん)という人物に皇帝の座を禅譲(ぜんじょう)する、「譲る」という形式で皇位を奪われてしまいました。

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皇位を譲る

譲るというのは何かを持っている人が別の人に対して、その持っている何かをあげたいから渡すということであって、本音を言えば渡したくないというのであればそれは本当の意味での「譲る」ということにはなりません。魏王朝最後の皇帝も本当であれば皇位にとどまり、自分の子孫に皇位を継承させたいと考えるのが普通です。したがって実際には司馬炎さんによって魏の皇帝が皇位を奪われてしまったということになります。しかし世間にありのままの状況をさらけ出してしまうと司馬炎さんは主君である皇帝を裏切って皇位を奪ったとんでもない家臣だと烙印を押されてしまいます。これでは新たな王朝で皇帝となっても世の中の人々から反発を招き国家経営にも支障が出てきてしまうかもしれません(出ないかもしれませんが)。そのため内心は「皇位をよこせ」と考えていながらも、魏の皇帝から「そなたに皇帝となってもらいたい(しぶしぶ)」といった意味のことを言われた時には「いえいえ、滅相もございません。皇帝陛下の跡を継ぐなどと身分不相応なことがどうしてできましょうか」といった感じの謙遜な態度を示してお断りするものなのだそうです。そういったことを複数回繰り返して、「そこまで皇帝陛下がおっしゃられるのであれば・・・。」ということで引き受けることを消極的に了承するといった結論に至ります。禅譲の際は非常に回りくどいやり取りがおこなわれたと言われています。こういった段取りを踏むことで世間的に体面を保てるものだったんですね。司馬炎さんがどうして紀元後265年に魏王朝の最後の皇帝となった曹奐(そうかん)さんに皇位を譲るよう圧力をかけたのか、明確に説明しているようなものを目にすることはありませんでした。ただこの司馬炎さんという方、父親だった人物が亡くなられてからそれほど期間を経ずに禅譲を曹奐さんに求めているようです。父親が亡くなったのが8月だったそうで、その年の12月にはもう禅譲するよう曹奐さんに圧力をかけ皇位を奪ってしまっていました。こういった経緯があるので司馬炎さんは父親に気兼ねしていたために父親が生きていた間はおとなしく皇帝の家臣という立場のままでいたということのような気がいたします。父親の司馬昭(しばしょう)さんは魏の政治の実権を握っていたものの、皇帝の座を奪うようなことまではしてはならないという分別を持っていた人なのかもしれません。あくまで個人的な意見ですが。

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司馬炎さんの予防策や司馬氏の台頭について

こうして皇位を譲ってもらった司馬炎さんは晋(しん)という王朝を新たに打ち立てることとなりました。後漢の献帝(けんてい)さんが魏の曹丕さんに皇位を禅譲した後、曹丕さんは皇帝としての自分の名を「文帝(ぶんてい)」としたように、司馬炎さんも晋王朝の最初の皇帝となってからは「武帝(ぶてい)」の呼び名が使われるようになりました。武帝となった司馬炎さんは新しい国造りの政治をおこなっていきましたが、おこなった政策の一つに司馬氏の一族の者を晋王朝内の様々な領地の領主として任命するというものがありました。こうすることによって司馬一族、つまり皇族勢力全体の力を強い状態に保とうとしたのだそうです。これについては司馬炎さんが魏王朝の政治について、魏が弱体化してしまったのは皇族、つまり曹丕(そうひ)さんの一族の力が家臣となっていた諸勢力の力に比べ必ずしも優位に保たれていなかったからだと分析したため、という指摘があります。魏王朝も皇族に領地を与える対応をしていたのだそうですが、皇族に与えられた領地は小さいものであり、そのため経済力は限られたものとなりましたし、各領地の領主となった皇族は軍を動かす権限を与えられることは無かったそうです。そのため魏王朝内に領主となっている皇族が複数いたとしても魏王朝の衰退、滅亡を防ぐ歯止めにはならなかったと。司馬炎さんは領主となった各地の皇族に広い領地を任せ、その領地の軍を動かす権限も与えました。司馬炎さんの分析は言い方を変えますと魏王朝の皇族の力が弱かったから司馬氏一族が力を持つことが出来たということになります。しかし魏王朝誕生当時、政治的な権限は皇帝である曹丕さんがしっかり握っていたことでしょう。いつ頃から司馬氏が大きな権限を持つようになっていったのでしょうか。魏王朝初代皇帝曹丕さんの時代も、二代目皇帝曹叡(そうえい)さんの時代も司馬一族の有力者であった司馬懿(しばい)という人が有能な家臣として皇帝に仕えていました。しかしこの時期は主君と家臣の関係をわきまえていたようです。異変があったのは二代目皇帝の曹叡さんが亡くなった後です。曹叡さんの養子だった曹芳(そうほう)さんという人が三代目の皇帝となったのですが皇位についた年齢が8歳の時だったそうです。この時代に司馬懿さんは曹芳さんを皇族のかたと共に補佐するよう曹叡さんに言われていたのですが、司馬懿さんはこの皇族のかたと争い命を奪ってしまいます。政治の実権はこの争い以降司馬一族が握る結果となりました。

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今回は魏王朝が滅亡した理由について取り上げました。先日は魏王朝の建国者が誰だったかというテーマで記事を作成しました。建国の次のテーマが滅亡というのでは展開が急な感じがしないでもありませんが、魏の場合45年間の王朝ですのでちょうどいいのかもしれません。滅んだ事実をすっ飛ばして次の王朝、晋の記事を書いてもいいのですが、やはり王朝が滅んだ理由は参考までに確認してみたいと思いました。教訓になることがあるかもしれないなとも思ったので。結果としては皇位を他家に対して禅譲したことにより王朝が滅んだということで後漢が滅んで魏王朝が誕生した時と同じ理由でした。何と言いましょうか、後漢の最後の皇帝から皇位を禅譲したという形で皇位を奪って成立した王朝が報いを受けて滅んだという見方が出来てしまうところが奇妙に感じてしまいます。滅んだ理由が同じなのはただの偶然と見る方々も当然たくさんいるとは思いますが。後は、この出来事をテーマに記事を書き終えつつあるこの段階で大河ドラマの一シーンを思い出しました。今となってはもう結構前の作品になりますが、俳優の岡田准一さんが戦国武将の黒田孝高(くろだよしたか)を演じた軍師官兵衛(ぐんしかんべえ)というドラマがありました。そのドラマで清水宗治(しみずむねはる)という武将が出てきます。この清水という武将は戦国大名の毛利家に仕えていた人です。ドラマの中では宇梶剛士(うかじたかし)さんが演じていました。この清水宗治の居城に毛利と対峙していた織田方の武将、羽柴秀吉(はしばひでよし 後の豊臣秀吉)の使者として黒田孝高と蜂須賀小六が訪れるシーンがあります。黒田と蜂須賀が訪問したのは清水宗治に織田方へ寝返るよう説得するためでした。毛利を裏切り織田に寝返った暁には二カ国の領地をあなたに差し上げますという見返りを黒田たちは提示します。その誘いに対し宗治は「二カ国とは・・・、このような田舎侍にはもったいないお話」と相手側に配慮をしつつも、きっぱりと断りました。その断る際の話の中に確か「裏切りによって得た国など、所詮裏切りによって失いましょう。」といった趣旨の内容を言っていたように記憶しています。そのシーンが今回の記事を締めくくる途中で頭の中によみがえり、今回の話はこの清水宗治のセリフとピッタリ合う出来事だなぁ、などと感じた次第です。必ずそうなるなどと決まっているわけではもちろんありませんが、主君を裏切ればおそらくろくなことにならないというのは何となく「そうなのではないかなぁ」と思ってしまいます。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。

日本の有力勢力が滅亡したことについて触れている話「平家が滅亡してしまったのはなぜだったのでしょう」はこちらです。

大陸が混乱していた時代の強国が弱体化した話「春秋時代の強国だった晋がどうして分裂したのでしょう」はこちらです。

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