三国時代の中国大陸に存在した魏の建国者は誰なのでしょう

三国時代の魏の建国者は

古代の中国大陸で起きた出来事や、かつて存在していた王朝の歴史、今回に関して言えば中国大陸の後漢から三国時代の話について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!今回の記事では後漢の次の時代である三国時代(さんごくじだい)に存在した国、魏(ぎ)を建国した人について自分なりに書いてみたいと思います。記事のまだ最初のあたりですが、結論をさっさと知りたい方もおられるかもしれませんので、早速建国者の名前を挙げておきます。魏の建国者は曹丕(そうひ)という人です。「ひ」の部分にあたる漢字は見慣れませんが、これを「ひ」と読むんですね。この方が魏を建国したのは紀元後220年とされています。曹丕という方の名前をそもそも聞いたことがありませんでしたが、三国志などで登場する有名な人物、曹操(そうそう)さんのお子さんです。曹操さんが亡くなったあとに魏が建国されたのであって、曹操さんが魏を建国したというわけではありませんでした。そして、この魏という国の建国の前に重大な出来事が発生しています。200年弱続いたかつての大国、後漢王朝がとうとう滅んでしまいました。この後漢の滅亡と魏の建国の間には、強いというべきでしょうか、関係があります。後漢の最後の皇帝である、献帝(けんてい)というかたが皇帝の立場を皇帝の一族である劉(りゅう)氏とは全く異なる血族の人物に譲ったことで後漢王朝は終わりを迎えたのですが、皇帝の座を譲られた人物というのが先ほどから名前の出ている曹丕さんなのです。譲られた結果、新皇帝となった曹丕さんが魏という国、王朝を建てた。そういう流れになります。先ほど皇帝の座を譲ったと書きましたが、なにも献帝さんは嬉々として曹丕さんに皇位を譲ったわけではないだろうというのが一般的な見方です。実際のところは曹丕さんに圧力をかけられ渋々譲ったということらしいですが、公には献帝さんからのたっての頼みで曹丕さんに皇位を譲った、曹丕さんは畏れ多いことだが皇帝陛下からの強い意向もあったので謹んで受諾したてまつったという形にして世間から批判が出ないようにしました。皇位を簒奪したものの、体面にはすごくこだわっています。

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建国前から魏という領域はありました

魏を建国して曹丕さんは皇帝となりましたが、その前から魏という名前の地域は存在していました。曹丕さんの父親、曹操さんが活躍していた頃には既にあったのですが、その場合の魏というのは後漢王朝の支配領域の一部の領地ということであって後漢から全く独立した別の王朝ということではありませんでした。曹操さんは後漢王朝の皇帝から特定の領地を治めることを許可され、その地域が魏と呼ばれていたということです。そのため曹操さんはその地域の領主ということで魏公と称されることもあるようです。その後この領主自体の階級が高まって魏王などと呼ばれることになりはしました。そういうわけで形式上は後漢に従属する立場であったということもあり曹操さんは建国者という位置づけにはなっていません。大きな反乱が発生してから後漢が国内をまとめる力を失ってしまい、後漢の支配していた領域は実質的に大きく三つの勢力へと分かれていくこととなります。その三つの勢力というのは三国志で有名な魏・呉(ご)・蜀(しょく)でありますが、その中でも特に強かったのが魏だったそうです。魏の曹操さんは後漢の皇帝をかくまうと言いますか、皇帝を自分の支配している地域にとどめておくことで自分の勢力の正統性を示すことにもなりました(他の勢力と戦うにあたって皇帝からの命令をいただくことが出来れば戦争の大義名分も手に入れられますので、その点は他の勢力に比べて有利です)。しかし皇帝の権威を利用するなどというよりも、曹操さんにその気があれば献帝さんに圧力をかけて、曹操さん自身が皇位を譲ってもらって新しい皇帝になることも出来たのかもしれません。しかし曹操さんはそのようなことをしませんでした。これまで後漢王朝に仕えた身であることから、そのようなことをするのがはばかられたとする見方があるようです。本当なのかもしれませんし、別の理由があったのかもしれませんし、よくわかりません。

皇帝にはなったものの

献帝から皇位をいただいた曹丕さん。皇帝となってからのお名前は文帝(ぶんてい)と言います。新皇帝となった曹丕さんは、程なく大陸の広範囲を三分していた勢力の中の一つ、呉を攻略しようとしました。しかし出兵しても戦果は上がらず、紀元後222年以降の三年間で複数回攻勢をかけたものの呉を滅ぼすことは結局出来ませんでした。戦争に勝つことが出来なかっただけではなく、226年には病にかかってしまい、それが悪化してお亡くなりになってしまいます。風邪をきっかけに肺炎になってしまったのだとか。ということで前の王朝の皇帝に皇位を譲ってもらったものの、それから六年で曹丕さんの時代は終わってしまいました。曹丕さんの兄弟との間で権力争いをしてまでつかんだ曹操さんの後継者としての立場であり、献帝さんから皇位も譲っていただいて、さぁこれからという気持であったのでしょうが、あっけないと言えばあっけない結末ではあります。建国された魏も皇帝が代を重ねてはいくものの、政治の実権を握ることが出来たのはせいぜい二代目のかたくらいまでだったようで、三代目以降は有力家臣に皇位の座を引きずり降ろされたり、家臣との武力衝突で命を落としたりなどといったことが続いて、決して有能な皇帝による堅実な政治がおこなわれるというような時代はその後の魏の世の中にはやってきませんでした。紀元後265年には三国の最強とうたわれた魏がとうとう滅亡してしまいます。後から見てみればたった45年間の王朝だったということになります。一方曹丕さんに皇位を譲った献帝さん。山陽県という地域を曹丕さんから領地として与えられ、山陽公という爵位の領主として生きていくこととなります。亡くなられたのは紀元後234年。50代半ばだったそうです。とはいえ皇位を譲った相手である曹丕さんよりは長生きをされました。そして山陽公という地位も献帝さんの末裔が後を継ぎ、紀元後309年までは続いたのだそうです。領地を保った期間の長さとしては決して長いとは言えないものの、逆らうことの出来なかった曹丕さんの王朝よりは長く続く結果となりました。

今回は後漢が滅亡してしまうのに伴い、魏という大国が建国された頃について取り上げました。先日の記事では後漢王朝が衰退していった理由を扱う記事を作成しましたし、順番を考えれば今度は後漢の滅亡するあたりだろうということで今回のようなテーマの記事にしております。今回の記事を作っていて後漢という王朝が滅亡することで魏が建国されたという事実を初めて知ったような気がします。高校では世界史を選択しませんでしたし、中学校ではここらあたりのことを詳しくはやらなかった気がします。単に忘れただけでしょうか・・・。中国大陸の歴史について順を追って記事にしていると、似たような出来事だなぁと感じることが、まだ三国時代あたりですが割とあります。最近やったばかりということでもありますが、魏の曹丕さんがやったことは「新」の王莽さんのやったこととダブって見えてしまいます。新の続いた時代は15年だったと言われていますし、今回扱った魏も220年から265年までの45年間。両方とも大して長くは続きません。魏などは三国の他の勢力、呉や蜀に比べ余程強い勢力だったと言われていますが、そのような国であっても続かなかったりするということでその点は意外ではあります。皇位を譲られて建国した王朝というのはそんなに長く続かないのでしょうか・・・。前王朝の歴代の皇帝や皇位を譲った皇帝の恨みなどが次の王朝の皇帝に祟ったのだ、などといった迷信にもなりそうですが、非科学的なことを考えてみたところで仕方ありません。ただ、三国時代以後の中国大陸の歴史の中でこのような事例(皇位の禅譲)がまた出てきた場合は、その後に誕生する国が存続した期間について注目してみたいと思います。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。

魏と同様に短い王朝、新について触れている話「前漢王朝と後漢王朝の間にはどの様な時代があったのでしょう」はこちらです。

かつての大国、周の滅亡について触れている話「強大な周王朝(西周)が滅亡した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

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