大逆事件とは?なぜ起きたのでしょうか?幸徳秋水についても
大逆事件とは
大逆事件(たいぎゃくじけん)とは西暦1910年(明治43年)に発生しています。日本全国の社会主義者や無政府主義者が大勢逮捕され、罰せられるという事件でした。
この事件で多数の人物が実際に処刑される結果となりましたが、明確な証拠が無い状態にもかかわらず死刑判決が下されたといわれています。
当時の政府から社会主義者、無政府主義者は大変厳しく弾圧され表立った活動をすることは無理な状態だったそうです。この事件は第2次桂太郎内閣が政権を担当していた時代に発生しました。
その前の政権第1次西園寺内閣が政権を担当していた時代は第2次桂太郎内閣時代ほど社会主義に対する弾圧は厳しくなかったそうです。日本社会党という政党が1906年に誕生し一年間政治活動することが認められていた時期が存在していました。日本社会党は国の法律の範囲内で社会主義を主張するという方針を掲げていたようですが、それについては党内部で意見対立もあったようです(大規模なストライキなどもっと強力な行動をとるべきだという意見に対し、一方では穏便な手法で活動すべきだという意見で対立)。
西園寺内閣の対応について政治的発言力の強い元老の山県有朋さんたちから社会主義勢力に対する取り締まりの甘さを批判され、1907年には結社禁止命令が出されて日本社会党は解散させられています。
社会主義という言葉は定義することがなかなか難しいように思いますが、この時代に主張されていた社会主義は個人が財産を持つことを禁止し、土地や物を作る工場などは国など公共のものとして人々に必要なものを生産し、それらを人々に公平に分け与えるようにして平等、公平な社会を作ろうという行動を促す考え方かと思います。
無政府主義という言葉も個人的によくわからない言葉でしたが、「政府のような国の権力や宗教など、昔からある社会的な権威というものは無いほうがいい、そういう権力や権威などの社会的なしがらみがない自由な状態こそ素晴らしい」という考え方のようです。
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大逆事件はなぜ起きたのでしょうか
基本的に当時の政府は「明治天皇を暗殺しようとしていた」という理由によって社会主義者、無政府主義者たちを逮捕したそうです。
具体的には1910年5月に宮下太吉という人物が長野県に存在した国が運営する工場で務めていた時に、明治天皇暗殺目的で危険物を製造、実験していたのだそうです。この人物の動きが警察の知るところとなって、宮下は危険物の製造を理由に法律違反で逮捕されます。本人は他三名の人物と天皇暗殺計画をたてていたそうです。大逆事件のきっかけはこの出来事になります。
この事件を理由に全国の社会主義者、無政府主義者は大勢取り調べを受け、その結果大勢の人物が明治天皇暗殺計画とのかかわりについては根拠の乏しい状態であるにもかかわらず逮捕、処罰されたのだそうです。
後に計画に少しでも関わりがあったのは宮下太吉を含む5人の人物のみであったことが判明したそうですが、実際にはこの事件では12名の人物が処刑されてしまっています。
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幸徳秋水さんについて
幸徳秋水さんは10代の頃に高知から上京し自由民権運動で活躍した思想家中江兆民(なかえちょうみん)さんから指導を受けていました。自由民権運動に参加し、民権運動と関係の強い新聞社で務めていた時期もあったようです。
その後権力者を批判する記事が多かった萬朝報(よろずちょうほう)という新聞社に移り記者としての活動を続けます。自由民権運動に関わっていた方ですが、この時期に社会主義を支持するようになり、社会民主党という政党を作ることに参加していますがすぐに政府から政党の活動を禁止されました。
日露戦争を転機に萬朝報の姿勢が戦争支持となったことでこの新聞社を離れ戦争反対を主張する週刊誌「平民新聞」を創刊します。
しかし「新聞紙条例」という国の言論関連法令に違反した理由で逮捕され刑務所に入っています。その後無政府主義を支持するようになったという指摘もあるようです。
1906年に出来た日本社会党にも関わり党内では「大規模なストライキをするべきだ」といった、党内での比較で言えばより過激な主張をする立場でした。しかしこの政党も1907年に解散させられ、その後は主に書籍の執筆という方法で自説を主張していたようです。
そのような中、大逆事件でこの人も逮捕され明治天皇暗殺事件に関与したと裁判で判断され死刑判決となり1911年に処刑されています。社会主義、無政府主義に関している人物として当時の日本では大変な有名な人でした。
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今回は大逆事件について取りあげてみました。第2次桂太郎内閣に関して記事を作ろうと思ったのですが、地方改良運動や帝国在郷軍人会の設立などといった政策を行った事が有名な内閣だそうです。この大逆事件が特に有名な出来事でしたので、今回はこの事件に絞っています。
当時のような政治、言論活動に対する統制が厳しい時代であっても、内閣によっては特定の主義を掲げる勢力に対する姿勢も異なるものなのだということを今回調べていて感じました。社会主義者に厳しい対応をした結果が大逆事件ですから、西園寺さんの内閣の時ではなく、桂さんが首相であった時に日本社会党を作っていたら西園寺さんの時のようにしばらく活動を認めるということはせず、すぐ解散させられていたのかもしれません。
私個人としては社会主義や無政府主義という考え方を支持する立場ではないですし、国の元首を暗殺する計画を立てる人がいればそれは当然逮捕すべきだろうと思います。
ただ当時の社会から見てとんでもない主義、主張であった社会主義、無政府主義を信奉しているにせよ、暗殺計画にかかわりが無い状態の人たちを死刑と判断し処刑してしまうのはやはり乱暴すぎるだろうと感じてしまいます。当時の政府はそれくらい社会主義を危険視していたということがうかがわれる事件ですね。
この事件は社会主義国が誕生してその国内で粛清などが行われ、多くの人たちが犠牲になる前の出来事(1910年の事件です)ではありますが、社会主義を危険だと考えていた人たちはもし社会主義体制の世の中となったら大勢の人が犠牲になるということを見通していたのでしょうか。当時の政府の人たちは君主制が危うくなるという理由のみから社会主義を危険視していたということなのでしょうかね。そこはよくわかりませんでした。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
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