ロシアで力を得たボリシェヴィキとは?レーニンについても

ボリシェヴィキとは

 

ボリシェヴィキとは西暦1903年にロシアに存在していた政党、ロシア社会民主労働党が分裂することによって生まれた政治勢力です。この政治勢力は後にソビエト連邦の共産党となります。ロシア社会民主労働党という政党はマルクス主義の政党だったそうです。マルクス主義というのは社会主義思想の一つで、生産のための建物、設備、金銭などの資本を個人が所有することを否定して社会の財産とし、階級の無い社会を目指すという思想です。1898年に誕生したこの社会民主労働党ですが、この政党の運営に関して意見対立が生じ二つの派閥、ボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂しました。ボリシェヴィキは「多数派」という意味があるのだそうです。そして1912年にボリシェヴィキは一つの政党となりました。

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このマルクス主義政治勢力ボリシェヴィキ、しばらくは全く政治的な主導権を握ることはありませんでした。1917年以降ボリシェヴィキを支持する人たちが急速に増え、1917年の10月に武装蜂起したボリシェヴィキが当時存在していた他の政治勢力によって作られた臨時政府を倒し政治権力を獲得しました。その後ボリシェヴィキが作る新しい国はボリシェヴィキが独裁をおこなうことで統治していくという方針を打ち出し、他の政治勢力を締め出すことに成功します。ボリシェヴィキはその後党の名称を「共産党」と変更しました。

 

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レーニンについて

 

レーニンという人はボリシェヴィキの中で指導的な立場だった人です。本名はウラジーミル・イリイチ・レーニンではなくウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフでした。彼の兄弟がロシア皇帝暗殺の企てに参加したという容疑で処刑されたり、マルクス主義に接する機会を持ったことなどを理由に反政府活動に参加していったようです。政治活動に関わる中で逮捕されシベリアの刑務所で過ごすような時期もありました。釈放された後ロシアから亡命し、欧州各国でマルクス主義の思想を広げる活動を続けています。その後社会民主労働党に参加し派閥としてボリシェヴィキが誕生した後はこの勢力の指導者として活動していくこととなりました。多数の著作を執筆しロシア国内でも支持者が増加し1917年にロシアに戻りボリシェヴィキによる武装蜂起を成功させボリシェヴィキによる独裁体制の中で国のリーダーとなります。1922年に脳卒中と診断され政治活動が困難となりました。その後1925年に死亡しています。

 

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今回はボリシェヴィキとレーニンについて取りあげてみましたが簡単にまとめるのはなかなか難しい分野のように思いました。第一次世界大戦中ロシアの政治体制が急激に変化しロシアが世界大戦から手を引くという事実の出だしとして今回の項目を調べています。しかしロシア国内でボリシェヴィキ勢力が権力を手に入れるまでの間に別の政治勢力が臨時政府を樹立して政治を行っていた時期もありますし、そういった一連の話を一つの記事にするのは難しく、内容を相当省く結果となっています。すいません。最終的に第一次世界大戦からロシアが手を引くときは既にレーニンが率いるボリシェヴィキが国を仕切っている状態だったようです。非常に強い国であったロシア帝国の皇室を頂点とした体制が国内の反乱によって倒れてしまうというのはちょっと理解しにくい感じがしました。軍の一部も反乱に加担したからそうなったということなのでしょうけれど、帝政ロシアというのはそんなにもろい体制だったのでしょうかね。日本という皇室の存在する国の国民としては君主制が倒れてしまう話に接すると不気味な感じをどうしても持ってしまいます。大国だった清の場合も皇室は倒れてしまいましたし、国民が守り支えるという気持ちを持たなくなってしまったら君主制度はあっけなく消えてしまうものなのですね。日本も「日本の皇室制度は続くに決まってるって!」などと油断しているととんでもないことになるのではないでしょうか。皇室制度の骨組みを弱めるおそれのある政策が実行に移されていないかどうか、日本の皇室を守りたいと考える国民は政治の動向をよく注意、監視したほうが良いのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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