後漢が衰退した理由は何だったのでしょう

後漢が衰退した理由

古代の中国大陸の出来事や、かつて大陸に存在していた王朝、特に漢の時代の歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では一旦滅亡してしまったものの、劉秀さんという方が再びよみがえらせた漢王朝、後漢が衰退してしまった理由について自分なりに書いてみたいと思います。このサイトでは前漢王朝が滅亡した後に誕生した王朝、「新」の時代については以前記事にしました。この新の時代に発生した地方での反乱、赤眉の乱(せきびのらん)や地方の有力な豪族を中心とした反乱によって新の皇帝は追いつめられ、短期間で王朝は滅びます。その後も紆余曲折はあったそうですが、結果的には前漢初代皇帝である劉邦さんの末裔、劉秀さんが皇帝(光武帝 こうぶてい)となり再び漢王朝を誕生させました。光武帝以降の漢の時代が後漢ということになります。紀元後25年に後漢の時代は始まったそうです。その前の王朝、新と異なり後漢はかなり長く続くこととなります(新は15年で滅んでしまいました)。結果的に後漢は紀元後220年に滅亡したとされているので200年弱ですね。大陸の西域まで勢力を拡大させていたそうで発展していた時代もありました。当時倭と呼ばれていた日本の勢力とも交流していたと言われています。そんな大国であった後漢も先ほど書きました通り紀元後220年に滅亡します。その頃には皇帝に実質的な権限など残っておらず、皇帝をかくまっていた時の有力者に皇帝の座を譲ってしまいました。皇位を譲られた人物は漢の皇族とは何の関係もありませんでしたので、これによって後漢の時代は幕を閉じてしまいます。後漢はどうしてこのような末路をたどってしまったのでしょう。後漢が衰退した理由については政権内部での権力争いが激しくなったことや民衆の不満が噴出したことなどがよく指摘されているようです。権力争いについては宦官と皇帝のお后となられる女性の一族である外戚(がいせき)の対立が説明されていることが多く、民衆の不満については農民が経済的に追い詰められて自分が耕作している土地を放棄して流民となってしまう、といったような事例の増加がかなり影響していると見られているようです。

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権力争い

宮廷内で皇帝の非常に近い場所で仕え、皇帝の手足となって働くお役人、宦官(かんがん)と、皇帝のお后の一族である外戚の対立というのは他の王朝でも前漢の時代にも存在していたようですが、後漢の時代も例外ではありませんでした。分別のある方がお后となった場合には自分の一族が政治に口出しすることを憂慮したことで外戚勢力の増長を防ぐことも出来ていたのだそうです。しかし皇帝の代を重ねていくとそういった配慮がなされないことも出てきてしまいました。政治に介入できるようになった外戚はぜいたくな生活をするようになります。外戚の発言力が大きくなることを宦官は警戒し、皇帝のもとで政権から外戚勢力を一掃するようなこともありました。それで政治が良くなったかというとそうとも言えず、宦官の発言力が強くなったことで彼らと関係の深かった一部の下級のお役人が出世し、能力に応じた人事がなされなくなったり、賄賂が横行するような政治の腐敗が進行してしまったという見方もあるようです。政治の腐敗を問題視して糾弾しようとする儒教に詳しいお役人たちもおられたそうですが、宦官勢力の策略によって皇帝自身の怒りを買ってしまい、そういった人々は処断されてしまうようなことになりました。宦官を制御することが出来るのは皇帝本人だけというような状況であっても政治に主体的に取り組む皇帝とは限らず、その場合には政治の腐敗が野放し状態となり外戚勢力がやっていたような私利私欲の政治と同じようなこととなってしまいました。権力争いが起きるのは仕方ないとして、争いに勝利し権限を持った勢力が適切な政治をやらずに腐敗したことをやってしまう。政権内の権力闘争が衰退の一因というのは腐敗した政治につながっていったからということのようです。

民衆の不満

後漢の時代も農民の中で貧富の差はありました。高い耕作技術を持ち、収穫量を増やして経済的に豊かになり所有する土地を増やしていく農民もいれば、普通の自作農のかたもいましたし、税を納められない、借金をして返せないなど何らかの理由で土地を売ってしまい、たくさんの土地をもった富農のもとで小作人をするような人もいたそうです。ただ後漢の時代が進んでいくと自分の耕していた土地を捨てて流浪する人が増えていきました。どうして流民になってしまったのかというと税負担があまりに重いため、あるいは天候不順など深刻な収穫量の減少でとても定められた税を納められないとか、豪族などから借りていたお金を返済するのが困難だといった事情があったようです。借金をしている場合は豪族などのもとで取り立てをしている人たちが圧力をかけて金を返すよう要求してきます。返すお金がなければ散々な仕打ちを受けることになりますので逃げる人も出てきます。また、お役人から要求される税負担が重いと、納めることが難しくなります。納めることが出来なければ役人から罰を受けなければなりません。大変厳しい罰を受けなければならないことを考えれば逃げ出してしまう人も出てくるというものです。税を納められない場合、流民にならないためには金貸しからお金を借りてそのお金で税を納めるしかありません。税を納めたとしても今度は借金が多くなって首が回らなくなる・・・。重い税負担が流民増加のそもそもの要因とも言えそうですが、後漢誕生の時から税が重かったというわけではなく、後漢時代の途中からだったようです。お役人たちは自分が出世するために、自分よりも上級のお役人に賄賂を贈る習慣が蔓延するようになりました。出世したいお役人は上役に差し出す賄賂のお金をねん出するためにどうするか。自分の担当している地域の民衆の税負担を重くし、増えた税収の一部を出世のための賄賂に充てるという、そういうことだったようです。また宮殿を新築するために税を重くする皇帝も中にはいたそうで、一般の人々の不満は強まりました。そういう背景の中で発生したのが黄巾の乱(こうきんのらん)と呼ばれる反乱でした(紀元後184年)。この反乱自体は王朝の勢力が鎮圧したのですが、この反乱をきっかけにして各地で反乱活動が頻発し王朝が制御することは出来なくなってしまいました。

今回は後漢王朝が衰えていく理由について取り上げました。以前の記事で新という王朝の滅亡を取り上げたばかりなのですが、その後に誕生する後漢については劉秀さんが王朝を立ち上げたいきさつや政策について一般的な関心がそれほど強くはないようです。どちらかというと衰退や滅亡の原因に関心が集まっているようでしたので今回のようなテーマの記事にしてみました。三国志の舞台ともなる時代なわけですが、お役人の腐敗、一般の人々の困窮といった構図は後漢に限った話ではないのでしょう。反乱を抑えられなくなった王朝に見切りをつけて各地で武装勢力が力を伸ばしていくことになります。王朝の影響力は急速に低下し国が分裂していきました。一般の人々が生活に困窮するような状況を作ってしまうと社会が混乱し国を維持することが難しくなるということであれば、税負担を可能な限り軽くするというのは社会を安定させるという点で有効な施策と言えそうです。一般国民の税負担が軽い国と言えば中東の産油国などが思い浮かびますが、先進七か国に入るような国々の税金がことさら安いなどという話はあまり聞いたことがありません。一方国を代表するような大変大きな企業が法人税を全然納めないで済んでいるなどという話は聞くことがあります。税が軽いのはいいことではありますが経済的に弱い立場の人たちからはそれなりに徴収して強い立場の人からそれほど徴収しないということになるならいびつな印象はどうしても持ってしまいます。応分の負担、累進課税(るいしんかぜい)がやはり健全なように思いますが、わが国にも存在する一部の税制はそれとはまったく逆行するものです(消費税のことを言っています)。税率が引き上げられてそれほど期間が経過していませんが経済に大きな影響が出ていることはGDPの変化を見ても明白です。これに懲りずにさらなる税率引き上げを画策する動きもある、などという噂も耳にします。今回の記事を作っていて、社会の安定を考えると決して税負担の増大はいい結果を招かないような気がしたので、税率の引き上げはやめてほしいですし、むしろぜひ減税してほしいです。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

後漢と関連する王朝、前漢の滅亡について触れている話「大国、前漢が滅亡してしまった理由は何だったのでしょう」はこちらです。

後漢よりも前の王朝、秦の滅亡について触れている話「大国である秦が滅亡した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

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