強大な周王朝(西周)が滅亡した理由は何だったのでしょう

西周が滅亡した理由

中国大陸についての歴史や古代に存在した王朝について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では一時代中国大陸の広大な地域を支配下に置いていた古代の王朝である周(しゅう)が滅亡した理由について私なりに書いてみたいと思います。ただこの記事で扱う周の滅亡はいわゆる西周(せいしゅうと読むそうです)と区分される時代の周王朝の滅亡、終焉についてです(その後も周の王様の一族が治める国は存在しましたがそれまでの周に比べ大陸の広大な地域を治める国ではありませんでした)。記録が残されている中で最も古い中国大陸の王朝として殷(いん)がありましたが、殷の王様がもともとは自分の臣下であった勢力の反乱を鎮圧するために牧野(ぼくや)で戦闘を繰り広げた結果敗北し、殷は滅びることとなりました。その結果誕生した王朝が周(しゅう)です。殷とは異なる仕組みで王朝の支配地域を治め、大変栄えた時代ももちろんありましたが、統治した王様も様々だったようで首都から逃れてしまい、王様の代わりに本来家来の立場だった有力者の人たちが共同で国を治めていた、などといった時代もあったそうです。そんな事態も経ているわけで誕生した頃に比べれば国をまとめる力も自ずと衰えていきました。凋落傾向であった周(西周)が滅んでしまったのは武王(ぶおう)というかたが実際に周王朝を建てた紀元前1040年代頃から270年ほど後の紀元前771年だと言われています。その時の周の王様は武王さんから数えて12代目の王様、幽王(ゆうおう)さんというかたでした。中国大陸の歴史に関する逸話によればこの幽王さんが本当に逸話どおりであるのなら為政者らしからぬ振る舞いをしたことによって異民族の侵略を防ぐことに失敗し西周が滅亡してしまったということになります。

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幽王さんの心変わり

幽王さんの頃の周も支配地域内の領地の一部を本来周の王様と血縁関係にあった人々や功績のあった人々に分配し治めさせていました。領地を分配された人々はその領地を国として統治し周の王様に従います。そういった周の支配が及ぶ地域の一つに申(しん)という国がありました。申を治める指導者、申侯は周の王様と外戚関係にあったそうです。この申の国から幽王さんはお后(おきさき)、正室を迎えていました。申后などと表現されているかたのようです。幽王さんはこの申后さんとの間にお子さんをもうけています。宜臼(ぎきゅう)というお名前の男子でした。正室のかたとの間に出来たお子さんなので王位を引き継ぐ立場の太子となります。しかしその後幽王さんの寵愛を独り占めしてしまうような女性が現れてしまうこととなりました。その女性は褒姒(ほうじ)というかたです。周の支配下にあった国の一つ、褒(ほう)から幽王さんのもとに側室として遣わされたようです。幽王さんは大変褒姒さんのことが気に入り、あまりに気に入り過ぎて結果的に正室であった申后さんからお后、正室の座を奪い、褒姒さんをお后さんにしてしまうようなことまでしてしまいます。それだけにとどまらず、王位を継承する太子であった息子の宜臼さんについてもその太子の身分を奪ってしまいます。新たに太子となったのは幽王さんと褒姒さんの間に生まれた息子さんである伯服さんでした。こういった一連の出来事で申の国の指導者である申候さんは幽王さんに対し反感を持つこととなります。申后さんは申候さんの娘さんなので一旦王様の正室となった自分の娘に恥をかかせるようなことをされれば、それは申侯さんも腹を立てることでしょう。申后さんも宜臼さんも申国に身を寄せることとなりました。

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そんな話もあるという程度かもしれませんが

申后さんを正室の座から、宜臼さんを太子の座から降ろしてしまった幽王さん。側近のかたから諌める動きがあったのかどうか。言っても聞く耳を持たなかったかもしれませんが。とにかく幽王さんは褒姒さんを気に入り過ぎてしまい、逸話どおりであるなら分別を失っていたと見ることが出来るでしょう。ある時手違いで周の支配下にある諸国の指導者たちに軍を率いて集合することを命じる合図の「のろし」が上がってしまいました。敵が攻めてきたといった非常事態に使われる合図だったようです。合図があったのでそれぞれの国の指導者、諸侯たちは軍を率いて大急ぎで幽王さんのもとに馳せ参じました。遠い所から駆けつけてきたのに、来てみればのろしは手違いであったと判明して、集まった諸侯たちは大いに拍子抜けしてしまいました。呆然とする諸侯たちの様子を見て寵姫である褒姒さんが笑顔を見せたそうです。褒姒さんはどういう事情からなのか普段は笑顔を見せることのないかただったと言われております。滅多に笑わない褒姒さんが笑顔を見せたため、指揮系統の問題によって発生した事故の結果の出来事であったのですが、幽王さんは非常に喜ぶことになります。珍しく笑顔を見ることが出来てうれしかったということで終わればよかったのですが、幽王さんは褒姒さんの笑顔を見たいという衝動を抑えることが出来ず、諸侯たちを駆けつけさせる「のろし」をまた上げてしまいました。敵が攻めてきたわけでもないのに「のろし」をたびたび意図的に上げる幽王さんの振る舞いにあきれてしまい、それまで駆けつけていた諸国の指導者たちもその後、合図ののろしを信用しなくなってしまいました。そのような状況の時に周に異民族の勢力が侵攻してきました。幽王さんは侵略を迎え撃つために味方を集めようと真面目に「のろし」を上げますが信用しない諸侯たちは合図があっても駆けつけず、周の都は異民族の侵攻でいいように荒らされてしまうこととなってしまいます。この侵略によって西周は滅亡してしまいました。幽王さんも命を落とす結果となっています。

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今回は周王朝(西周)の滅亡について取り上げました。殷の滅亡と周の統治の特徴について以前それぞれ記事にしてみたわけですが、結局殷を滅ぼした周も強大な王朝と言う立場ではなくなってしまいます。そんな周の滅亡の理由について確認してみたく今回のようなテーマの記事にしてみました。幽王さんというかたが味方となる諸勢力から相手にされなくなったことで侵略を許し滅んだという内容の逸話が古代の書物によって残され現在に至るまで伝わっているわけですが、この逸話、どこまで事実に基づいているのかについては何とも言い難いものがあります。滅んだ理由としては他にも諸侯と周の王さまとの血族としての関係や恩義などの結びつきが世代を経るごとに薄れていってしまい、以前のような王様に対する忠誠心が保たれていなかったことで周全体の結束が望めなくなって瓦解してしまったといった見方もあるようです。先ほどの「のろし」の逸話に関する補足ですが、先の正室の故郷の国、申国の指導者、申侯さんは周を侵略した西方の異民族、犬戎(けんじゅう)と手を結んでいたなどという話もあるそうです。申国の指導者が幽王さんを恨んだことで異民族の侵略が実現してしまったのだとしたら、家庭の不和もなかなか軽んじることは出来ないものだといった気持ちがしてこないでしょうか。そしてやはり褒姒さんという女性の影響も無視はできないでしょう。逸話の範囲では何か悪事をはたらいたというわけでもないのですが笑みを浮かべるだけで周を没落させてしまったということになります。国を統率する実力者には異性に振り回されない精神的な強靭さが求められるものだということなのでしょうが、現在に至るまでの歴史の中で多くの有名人が失敗している分野ですから大変難しいということがわかります。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では武市正雄さんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

周の前の王朝、殷が滅亡したことについて触れている話「殷王朝が滅亡した理由は何だったと言われているのでしょう」はこちらです。

戦国時代の有力大名が滅亡した出来事について触れている話「有力戦国大名の武田家が滅亡した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

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