殷王朝が滅亡した理由は何だったと言われているのでしょう

殷が滅亡した理由

中国大陸の王朝、古代の中国大陸の歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに物凄く古い時代に存在したと言われている王朝、殷(いん)が滅亡した理由について書いてみたいと思います。中国大陸には漢字一文字で表示される王朝が歴史上複数誕生してきましたが、存在したのが確からしい王朝というのはどこら辺までさかのぼれるのかということになると出土した品などで確認できるのは今回取りあげようとしている殷以降のようです。殷という王朝は商(しょう)という字で大陸では表示されたりもします。この殷という王朝はさまざまな説があるようですが、紀元前1500年代に誕生し紀元前1050年頃まで続いたといった見方が多いようです。そういった見方に従いますと大体400年以上は続いた王朝ということになります。王朝ではありませんけれど日本の政権、徳川幕府はかなり長続きしたほうだと思います。そんな徳川幕府でも1600年代初頭から1860年代までの間ですので260年間くらいということになります。一方殷は400年ですから相当長い間権力を維持出来た王朝と言えるのでしょう。そんな殷という王朝にも滅亡の時期が到来してしまいます。長らく続いたこの王朝、殷が滅亡した理由は何なのかですが、当時殷を治めていた王様がお世辞にも良いとは言えない政治をおこなったことで多くの敵が出てくる結果となってしまい、殷が重要な戦争に敗れてしまったため滅亡に至ったということのようです。殷滅亡の時、王様は自ら命を絶ったと言われています。

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最後の王様

殷王朝の歴史は長いため、何代にも渡って王位が引き継がれたわけですが、滅亡の時代に王位にあったかたは紂(ちゅう)と呼ばれる王様でした。紂王です。他の名称に帝辛(ていしん)があります。殷王朝第三十代の王様でした。弁舌が巧みだとか腕力も強いといったことをはじめとして、統治者としての能力が高い人物だったと言われており、王位を継承して即民衆に過酷な負担を強いるような政治をおこなったというわけでもなかったようです。ただ紂王さんのおじさんにあたるかたは紂王さんが象牙製の箸、つまり贅沢な品物を使う様子を目にして紂王さんの治める世の中が乱れることを予感し嘆いたなどという話が残されています。紂王が贅沢な箸を使用するようになったからには様々な物についても豪華なものを志向するようになるであろう、そうなるとそれまでの宮中の収入では足りなくなるだろうというわけです。今までよりも多くの税負担を民衆に課すようになることを案じたのでしょう。紂王さんがひどい政治をするきっかけとなった出来事としてよく挙げられるものに、ある女性がお妃になったという話があります。妲己(だっき)と呼ばれたお妃です。この女性がお妃になった経緯ですが、殷王朝が他の勢力と戦をして殷王朝が勝利し制圧に成功したことがありました。その負けた側の勢力から紂王に女性がささげられることとなります。その女性が妲己というかただったわけです。紂王にとって妲己さんは非常に魅力的だったらしく、妲己さんは紂王の非常に強い寵愛(ちょうあい)を受け、紂王は妲己さんの求めることなら何でもかなえてあげようとしたそうです。妲己さんに豪勢な生活を提供することで莫大な財が必要となるわけですが、そのしわ寄せは国の民衆に重税という形で来てしまうこととなりました。多くの民が苦しむこととなります。

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反乱

殷の政権で高い地位の官職にあった人たちの中には紂王さんのおこなうことを諌める(いさめる)、今の政治、政策を改め、正しい政治をするよう進言するかたもおられたそうですが、紂王さんはそういった良かれと思って忠告する家臣をむごたらしい方法で殺害してしまったそうです。そうなってしまうと家臣の人たちも殺されてはたまりませんから心の中では王様に批判的であっても口をつぐむことになります。王様の振る舞いを穏便な方法で改めさせることなど出来なくなりました。紂王さんの家臣にあたり、殷のいくつかの領地の統治をまかされていた人物で、おこないの正しい、様々な勢力から慕われるかたがいたのですが、その方の息子にあたる人が後に武王(ぶおう)と名乗る次の王朝の王様になります。この武王さんが反乱を起こし紂王さんと対決しました。牧野の戦い(ぼくやのたたかい)という戦闘が有名です。紂王さんは殷が保有する大軍を率いて武王さんの勢力を倒そうとしたのですが、ひどい政治をおこなっていた紂王さんに従うような忠実な兵員は実際のところ少なく、紂王さんのために命を懸けて戦わなかったようで、この牧野の戦闘で殷側は敗れてしまうこととなりました。退却した紂王さんは、もう殷王朝に未来が無いと考え、自分が建造させた豪華絢爛な建物の中で自害したと言われています。寵愛を受けた妃、妲己さんもその際に命を絶ったという指摘もあるようです。このようにせっかく400年以上の歴史を重ねた王朝であるにもかかわらず、最後には殷の君主が自決するという形で幕を閉じてしまうこととなりました。殷は滅亡してしまい反乱側の指導者が新たな王朝、周(しゅう)を建てることになります。

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今回は中国大陸の大変古い王朝である殷の滅亡について一部取りあげました。日本の歴史を中心にこのサイトでは記事を作ってきましたが、なかなか自分が決めている規則の範囲内で日本の歴史に関するテーマを見つけにくくなってきており近くの地域の歴史についても扱ってみようかという思いから、それならアジア大陸の歴史ということで、今回はこのようなテーマの記事にしてみました。殷の前には「夏(か)」という王朝が存在したという伝説もあるようなのですが、それを示す物証が無いという話のようなので殷の話にしております。以前このサイトで作成した故事成語に関する記事でも殷の滅亡の話は触れたことがありました。長い時代続いてきた政治的な枠組みが腐敗を理由に崩れ去っていくなどという話は別に殷に限った話ではないようにも思います。ただ一国が滅びるという話はそこで生活している人々にとっては当然重大な話でありまして、こうした王様の政治の腐敗や反乱の影で多くの住民の命が犠牲になってしまっていた、などということも、もしかしたらあったのかもしれません。腐敗させることなく穏健な政治体制を出来るだけ長く維持させることがその体制下で生きる人々を守ることにもなるのでしょうから、政治体制を腐敗させない方法を確立するというのは結構重要なテーマなのかなという気もします。どうしてそんなことが重要なんだ?という問いに対しては今回取りあげた話が一つの答えになるのではないでしょうか。政治の腐敗が進行すると一般民衆の税負担が強まって苦しんだり、体制が滅んで社会が大きく混乱してしまうことにつながりかねない、そういった点で殷の滅亡の話を知っておくのは無駄ではないのでしょう。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではコドモさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

清王朝の滅亡について触れている話「辛亥革命とは?革命が起きた原因や袁世凱についても」はこちらです。

平家勢力が滅亡した出来事について触れている話「平家が滅亡してしまったのはなぜだったのでしょう」はこちらです。

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