信長さんが比叡山を焼き討ちにした理由は何だったのでしょう

信長さんが比叡山を焼き討ちにした理由

 

比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)というお寺は天台宗宗派の仏教のお寺で、滋賀県の大津市(滋賀県の南西部にある自治体です)にあります。地図で見てみるとよくわかるのですが、京都に近い位置に存在するお寺です。延暦7年、西暦788年に造られた歴史のあるお寺で、日本仏教にとって重要なお寺の一つとされています。浄土宗の法然(ほうねん)さんや浄土真宗の親鸞(しんらん)さん、日蓮宗の日蓮(にちれん)さん、臨済宗の栄西(えいさい)さん、曹洞宗の道元(どうげん)さんといった方々は有名な仏教宗派の開祖ですが、皆さんこの比叡山延暦寺で学んだ経歴をお持ちなのだそうです。そういったことを考えますと仏教界だけではなく当時の世の中で相当な権威を持っていた存在であったと想像されます。この延暦寺を信長さんは元亀(げんき)2年、西暦1571年に襲撃し延暦寺に関係する人々を焼き討ちにしたと言われています。信長さんのこの行為によって命を落とした延暦寺の関係者の数は資料によっても数字が異なりますが多い数では3000~4000名くらい、少ないもので1500名くらいだと言われているようです。たくさんの方が亡くなったこの延暦寺焼き討ち、信長さんはこのような軍事行動をどうしておこなったのでしょう。信長さんが当時戦をしていた戦国大名にこのお寺が味方をしたというのが理由となっているようです。

 

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信長さんの要請

 

信長さんは永禄13年、元亀元年、西暦1970年に北陸地方、越前(現在の福井県の一部にあたる地域です)の戦国大名、朝倉義景さんとの戦を始めます。室町幕府第15代将軍、足利義昭さんが将軍就任後、朝倉さんに京に出向き挨拶するよう将軍を補佐する信長さんと共に指示を出しました。この指示に従わなかったことで幕府に対する謀反の疑いがあるという理由で織田勢が朝倉家を攻撃することになります。これによって朝倉家と縁のある近江(おうみ 現在の滋賀県にあたる地域です)北部を領地とする浅井家が織田勢と同盟を結んでいたにもかかわらずその関係を破棄し織田勢と戦うこととなりました。織田勢対浅井・朝倉連合の戦となったのですが比叡山延暦寺は浅井・朝倉連合に協力する態度をとりました。浅井・朝倉勢の兵員をかくまうようなことをしたそうです。そのような動きを受けて信長さんは延暦寺に対し織田側に味方して欲しい、織田側に味方が出来ないなら、せめて織田と浅井朝倉連合に対し中立の立場に立ってほしいといった要請をしたそうです。しかし延暦寺の指導部はこの信長さんの要請を拒否する姿勢をとってしまいました。延暦寺の姿勢に対し信長さんは焼き討ちという過激な行為に出ることとなります。

 

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延暦寺に敵対されるとまずい理由

 

浅井・朝倉連合と戦をするにあたって敵対する勢力が少ないほど都合がいいという理由は当然として、他に延暦寺の地理的な要因もあって信長さんに敵対することが容認できなかったという見方もあるようです。先ほども触れましたが京都に大変近い位置にあり、信長さんの拠点となっていた岐阜から京都に移動する際、延暦寺に大変近い地域を通過することになります。そのような地域に敵対する勢力があっては信長さんにとっては邪魔となります。また北陸地域と京をつなぐ重要な街道が延暦寺の近くを通っていますので延暦寺が存在する地域は交通面で大変重要でした。地理的な都合とはまた別の理由になりますが、延暦寺を攻撃した理由として本来厳しい戒律に従って宗教活動するべき仏教の僧侶が規則に違反する様々な行為をおこない大変堕落しているということを信長さんが挙げていたという指摘もあるようです。宗教勢力に対するこのような攻撃は信長さんが戦っていた他の宗教勢力、浄土真宗の信者の人々である伊勢の一向一揆をしていた人々、現在の大阪にあたる地域に存在していた浄土真宗の重要なお寺、石山本願寺の関係者に信長さんの恐ろしさを植え付けたことでしょう。

 

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今回は信長さんによる比叡山延暦寺の焼き討ちについて一部取りあげました。信長さんの過激な行為に関する話としてこの延暦寺の焼き討ちは大変有名だと思いますし、私も聞いたことはあったのですが、何を理由にそのような事をしたのかについては知らなかったため、確認してみたくこのようなテーマの記事にしてみました。浅井・朝倉との戦が理由となっていたわけですね。また延暦寺側が浅井・朝倉勢をかくまったらすぐ焼き討ちをしたということではなく味方になるか中立であるよう要請したということで、信長さんなりに注意喚起をしていたということを今回初めて知りました。強引な信長さんがそのような気の配り方をしたということからも延暦寺にはすごく権威があったということがうかがえるような気もします。この信長さんのとても厳しい対応によってそれ以降日本国内で宗教勢力が政治介入することは減り、政教分離の傾向が強まったという指摘もあるようです。伊勢の一向一揆をおこなった勢力も2万人もの人々が命を落としたそうです。宗教が権力争いに関与すると多くの人が巻き込まれてしまうものなんですね。恐ろしい話です。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

信長さんと一部宗教勢力との対立について触れている話「信長さんが一向一揆を起こされたのはなぜだったのでしょう」はこちらです。

現代の過激な宗教勢力による反乱行為について触れている話「地下鉄サリン事件で被害者となられた方々の人数は」はこちらです。

 

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