上杉謙信さんが塩の売却を続けた理由は何だったのでしょう

謙信さんが塩の売却を認めた理由

 

有力戦国大名として有名な武田家の武田信玄さん。強力な軍勢をもって甲斐(かい 現在の山梨県にあたる地域)一国にとどまらず、信濃(しなの 現在の長野県にあたる地域)の一部も勢力下においていました。信玄さんは自分の領地の南側で接する戦国大名の今川家や自分の領地の東側で接する戦国大名の北条家と同盟を結んでいました。甲相駿(こうそうすん)三国同盟などとも言われるそうです。甲相駿は甲斐、相模さがみ、駿河するがを意味する表現で、甲斐は武田、相模は北条、駿河は今川のことを示しています。相模国は現在の神奈川県の一部にあたる地域で、駿河国は現在の静岡県の東部にあたる地域です。この同盟が結ばれた時のそれぞれの大名家の当主は武田信玄さん、北条氏康さん、今川義元さんでした。有名な桶狭間の戦いで今川家の当主だった今川義元さんが織田勢に討ち取られてしまい、今川家の当主は義元さんの息子さんである今川氏真さんになります。以前の記事でも扱いましたが氏真さんも手を打つのですがなかなか自国領地の統治が安定せず、そのような時期に武田が今川家との同盟を解消する動きに出ました。信玄さんの息子さん(武田義信さん)のお嫁さんである今川氏真さんの身内のかたを今川に送り返してきました。武田義信さんは信玄さん暗殺の嫌疑をかけられ跡継ぎの資格を信玄さんから奪われてしまいます(廃嫡はいちゃくといいます)。武田と今川の姻戚関係が消失しそれから1年ほど経過してから信玄さんは今川の領地である駿河を侵略したのでした。武田と今川は敵対関係になります。武田のこのような動きに北条家も反発しました。今川や北条は武田に対して制裁を加える動きに出ます。武田の領地に塩が流入するのを制限しました。塩は当時も生活上必要不可欠な物資であり武田の領民は塩が乏しいせいで食料の保存も含め困難な状況となってしまいました。この経緯を見ればわかる通り塩を止める制裁が加えられたのは信玄さんの駿河侵攻が理由なのですから信玄さんの自業自得なのですが、そんな武田にとって結果的に助けとなったのは越後(えちご 現在の新潟県にあたる地域)からの塩の流入でした。越後の戦国大名、有名な上杉謙信さんが甲斐に塩が流入するのを止めなかったそうです。今川などによる塩の制裁は駿河侵攻の後なので永禄11年、西暦1568年以後ということになりますが、その頃の上杉と武田の関係はとっくに複数回川中島で戦をおこなっている関係であり、敵同士ということになります。今川方は上杉家にも塩による制裁の協力を要請したそうですが謙信さんは今川方に協力せず甲斐に塩を提供しました。謙信さんが塩の売却を認め続けた理由は何だったのでしょう。江戸時代の逸話を集めた書物の内容によれば謙信さんの律義さゆえの行為だったということになりますし、一方で経済的利益が理由だったという見方もあるようです。

 

スポンサーリンク

謙信さんが律儀な人だったから

 

江戸時代に作られた過去の逸話を集めた書物に常山紀談(じょうざんきだん)というものがあり、そこに今回の謙信さんの行為を取りあげている話が載っているそうです。謙信さんは武田に書状で事情を問い合わせたそうで、全容を知った謙信さんは今川方や北条方がおこなっている塩を止める行為は不勇不義(つまり卑怯ということなのでしょう)の極み。自分が武田と争うのは弓矢の話(つまり戦場でのいくさの上での話)であって食料の上での話ではない。塩を我が領地に取りに来るがいいでしょう。商人に命令して(高くない)妥当な価格で提供します、と武田方に伝えたそうです。この逸話が事実であるのならば謙信さんは御本人の倫理観から経済制裁は義に悖る(もとる)、正義ではない行為と見なし、武田に塩を提供したということになります。

 

スポンサーリンク

上杉側の経済利益の為

 

もう一つは敵である武田を相手に経済的利益をたくさん得られるから塩の供給を続けたという見方です。武田に今まで塩を提供していた今川などが塩を止めたせいで、今や甲斐に塩を供給するのは越後だけなわけです。商売の競争相手がいない中、越後で生産される塩を武田側がたっぷりと購入してくれることになり、その経済利益は相当な額となることでしょう。商取引で敵である武田からまっとうに多額の金品を得ることになるのですから上杉側にとっては経済的に潤うことになりますし損なことにはなりません。経済利益を得る好機と判断したので謙信さんは武田に塩を売ったのであって道義的な理由だけではないでしょう、最近ではそのような見方が多くなっているようです。

 

スポンサーリンク

今回は謙信さんが塩を売り続けた理由について取り上げました。武田、今川、北条、上杉、この有名な戦国大名家に関する記事を最近は作っていますが、謙信さんが武田に塩を送った理由について関心を持たれている方が多いようなので自分なりに記事にしてみたくこのようなテーマの記事を作った次第です。江戸時代の逸話集には謙信さんの見解が短く述べられているようですが、それを証明する謙信さんの書状のようなものは、調べた限りでは目にすることは出来ませんでした。創作なのでは?という見方が出るのも仕方のない所ではありますが、武勇を誇る上杉謙信さんが義を重んじて敢えて敵を助ける行為に出る律儀な人だった、そんな大名家の上杉家が明治まで続いたなんていうほうが素敵に感じます。自国の領土拡大目的の戦ではなく周辺勢力からの支援要請に応じた結果の戦が多かった謙信さんですから逸話集の話が荒唐無稽と否定する気にもあまりなれません。ただ謙信さんの領国経営は麻の織物の販売や海運業者からの税金徴収といった特徴ある政策によって大変潤っていたという話を今回の件で謙信さんについて調べていて知る結果となりました。謙信さんは戦上手なだけではなく経済政策も上手だったようです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

戦国大名武田家の末路について触れている話「有力戦国大名の武田家が滅亡した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

謙信さんと信長さんの関係について触れている話「織田信長さんと上杉謙信さんの関係はどうだったのでしょう」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る