前田利家さんと秀吉さんの関係はどうだったのでしょう

前田利家さんと秀吉さんの関係

 

秀吉さん、豊臣秀吉さんのことですが、彼は当時数多く存在した国内の戦国大名を全て自分の臣下とし天下統一を実現したことで有名な人であり、前田利家(まえだとしいえ)さんは戦国時代を生き残り秀吉さんの時代も、家康さんの時代も存続し続けた大名家である前田家の当主だった人です。前田家が領有した地域は越中(えっちゅう)、加賀(かが)、能登(のと)で越中は現在の富山県にあたる地域、加賀は現在の石川県の南の地域にあたり、能登国は現在の石川県の北部にあたる地域です。領有した地域は合計すると100万石以上にものぼる広大なものです。天下人となった秀吉さんと非常に有力な大名だった前田利家さん。このお二人は秀吉さんが政治を仕切っていた頃は秀吉さんが主君で利家さんは秀吉さんに従う臣下、家来という関係でした。秀吉さんのおこなった政治の枠組みで五大老、五奉行などといった制度がありましたが、有力大名があてられた五大老という立場に利家さんはおさまっています。重要な立場でもあったことから秀吉さんから信頼、尊重される立場だった事がうかがえます。ただお二人の関係は知りあって以降一様なものだったわけでは決してなかったようです。

 

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織田信長さんの家来

 

利家さんと秀吉さんは若い頃、織田信長さんに仕えていました。仕え始めた頃の状態は利家さんが尾張(おわり 現在の愛知県西部にあたる地域)の地元の城を持ったお侍さんの子息という立場であり、一方秀吉さんは農民出身あるいは足軽の家のお子さんという立場だったと言われており、利家さんの立場は秀吉さんの立場よりも上だったはずです。しかしこのお二人はそのような身分差がある中でもかなり仲の良い関係でした。それを示す事実として利家さんが結婚する時には秀吉さんご夫妻が仲人を担当したと言われていますし、利家さんの娘さん(利家さんの四女)がお子さんの出来ない秀吉さん夫婦の養女となった、という出来事もあったそうです。こういった話をふまえれば利家さん、秀吉さん、お二人の関係はかなり深かったということが言えるでしょう。また利家さんが自分よりも本来身分の低かった人物と親しく接することの出来る、身分の敷居が高かったであろう当時の状況を考えると非常に度量の広い人物だったということも言えるかと思います。

 

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敵対

 

信長さんの家来だったお二人でしたが敵対した時期もありました。利家さんが信長さんの指示で柴田勝家さんを補佐する役目を果たしていた頃のことです。信長さんが御存命の頃はよかったのですが、天正10年、西暦1582年に起きた本能寺の変によって信長さんが命を落とすと織田家中で権力闘争が激化し秀吉さんの勢力と柴田勝家さんの勢力が戦をすることになってしまいました。利家さんは北陸で柴田さんを支援する立場にあったため、柴田さんと秀吉さんの戦が起きた時には柴田さん側で戦いました。利家さんと秀吉さんは敵同士で戦ったわけです。戦は秀吉さんの勢力が優勢となり柴田さんは自害することになりましたが、利家さんは秀吉さんからの降伏勧告に応じます。これ以降利家さんは秀吉さんの配下として行動することとなりました。秀吉さんも親交のあった利家さんにこの戦での責任を厳しく追及するようなことはありませんでした。その後は秀吉さんの臣下として九州の島津家との戦や関東の北条家との戦にも参加したり、まだ秀吉さんに従っていなかった立場の戦国大名との交渉を担当するような仕事も任されていました。柴田さんとの戦で対立関係となって利家さんが秀吉さんに降伏した以降は決定的にお二人の関係が悪化するようなことはなかったようです。

 

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今回は有名な戦国武将である前田利家さんと秀吉さんの関係について取り上げました。最近は信長さんがそれ程台頭していなかった頃の今川家や武田家、上杉家に関する話を取りあげることが多かったのですが、信長さんの家臣だった人物で、その後発展した大名についても記事にしてみたく今回は前田利家さんに関係する記事を作ってみました。秀吉さんの政権の中の五大老は徳川家康さん、前田利家さん、毛利輝元さん、上杉景勝さん、宇喜多秀家さんといった方々ですが織田家家臣から身を起こした立場の方はこの五名の中で利家さんしかおられません。家康さんは信長さんに従属するような関係ではあったものの、形式的には信長さんと同盟関係を結ぶ独立した大名の立場でした。宇喜多家も一時期を境に織田方についた大名ではあります。他の二名の方は織田家とは異なる立場の、織田家と戦をおこなったこともある戦国大名です。織田家臣の立場から出世して天下人となった秀吉さんとしては似たような境遇だった利家さんの存在は心強かったことでしょう。秀吉さんは亡くなる際に自分の息子さんである豊臣秀頼さんの後見人として利家さんを指名しています。一時期敵対した期間があるものの、お二人の関係が相当強固で信頼のおけるものだったのでしょうし、家康さんが自己の勢力拡大のための動きを強めたのは利家さんが亡くなった後だったようですから、利家さんには相当な影響力があったということがわかります。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

前田利家さんの名前が出てくる他の話「石田三成さんと徳川家康さんの対立理由は何だったのでしょう」はこちらです。

真田幸村(信繁)さんと秀吉さんの関係について触れている話「真田幸村さんは秀吉さんとどのような関係にあったのでしょう」はこちらです。

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