織田信長さんと浅井家の関係はどのように推移したのでしょう

織田信長さんと浅井家の関係

 

信長さんは尾張から周辺地域に勢力を拡大する過程で近江(おうみ)、現在の滋賀県にあたる地域を領地としていた戦国大名とも戦っています。信長さんが近江を支配下とする以前は近江の北部を浅井家が支配していました。信長さんがこの浅井家と戦った頃の浅井家当主は浅井長政(あさいながまさ)さんという人です。この長政さんという人は他の戦国大名と連携して信長さんの支配する地域を包囲し苦しめたようですが、結果的には信長さんの軍勢に敗れ自害しました。浅井長政さんというかたは信長さんと最初から対立関係にあって戦をすることになったのかというとそういうわけではありませんでした。一時期は非常に良好な関係となっています。ある出来事をきっかけに急速に関係が悪化しました。

 

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同盟

 

近江の北部を支配していた長政さんは近江の南側を支配している戦国大名、六角(ろっかく)家と対立し戦をすることもありました。強敵である六角勢に比べ少ない軍勢にもかかわらず勝利する実績を残していた浅井長政さんは周辺諸国からも注目される存在だったようです。信長さんはその長政さんに同盟関係を結ぶ働きかけをしました。信長さんが浅井家にそのような話を持ちかけたのは織田軍が京に向けて進軍するにあたって近江を通過する必要があり、その際協力してくれる勢力が必要だったからという指摘があるようです。信長さんは浅井家と関係を深めるために信長さんの妹さん、お市の方と長政さんの縁談を実現させました。婚姻の費用を織田側が支払うほど積極的にこの話を進めたそうです。織田・浅井同盟が成立し織田勢は足利義昭さんをかついで京へ進軍します。その過程で織田勢は近江南部の大名、六角氏と戦いますが短期間で勝利しました。浅井家が脅威に感じていた六角氏を倒してくれたわけですし浅井家にとって織田家との同盟はとても有益だったことでしょう。織田軍はその後上洛、京に進軍することが出来ました。

 

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姿勢の豹変

 

室町幕府第15代将軍に就任した足利義昭さんと将軍を補佐する立場の信長さん。お二人は諸国の大名に対し将軍にあいさつ(臣下の礼をとることを求める意味を持ったものだと思いますが)を目的として上洛、京を訪問するよう指示を出します。指示を出された大名の中には北陸地方の越前、現在の福井県の一部にあたる地域を支配していた朝倉(あさくら)家もありました。しかし朝倉家は幕府から二度そのような指示を出されたにもかかわらず従いませんでした。朝倉側の反応を理由に信長さんは永禄13年、西暦1570年に朝倉家討伐を開始することになります。このことにより浅井家内部で深刻な意見対立が発生しました。同盟関係を結んだ織田側につき続けるべきか、朝倉家を守るべきかという意見対立です。浅井家は織田家と同盟を結ぶにあたって織田勢は朝倉家と戦わないことを条件としていたのだそうです。浅井家が織田家と同盟を結ぶ以前、浅井家は六角家と対立していた関係で朝倉家にはお世話になる間柄でした。朝倉家が浅井家に敵対していれば六角家と朝倉家に挟み撃ちにされてしまうことも懸念されたそうです。しかし朝倉家はそのような方針をとらず、お蔭で浅井家は存立を保てたという側面もありました。そういった事情もあり同盟を結ぶにあたって条件としていた内容を信長さんが破ったため浅井家内部で同盟の破棄と朝倉家擁護の意見が強まりました。隠居していた長政さんの父親が朝倉家擁護側に立ったことも大きかったのでしょうか、長政さんは朝倉側に立って信長さんと戦う決断をします。こうして織田と浅井は戦をする関係となってしまい結果的には浅井家が織田側に滅ぼされてしまうことになりました。

 

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今回は信長さんと浅井長政さんの関係について一部取りあげました。戦国時代の中で織田さんは注目される人物のお一人ですが、その信長さんが非常に危険な状態となるのが朝倉勢と浅井勢に挟み撃ちにされてしまった時の話です。その登場人物である浅井長政さんがどうして同盟関係を結んでいた信長さんを裏切った形で朝倉家についたのか理由を確認したくこのようなテーマで記事を作ってみました。同盟締結の条件としていた内容を信長さんが破ったという事実があるわけですから長政さんが一方的に裏切ったということでもなかったわけですね。朝倉氏を討伐する以前に信長さんが長政さんに話を通すようなことは今回調べた限りではなかったのだそうです。朝倉討伐以前に信長さんと長政さんで条件について協議をおこなっていたら違う方向に話が展開したのかもしれません。信長さんはそういった意味ではやはり強引な所がある人だったということなのでしょう。そういった印象は信長さんを取りあげるドラマでもよく強調される所ではあります。浅井側と協議する手間をかけていれば信長さんの包囲網も形成されにくかったことでしょうし天下統一事業も早く進んだのかもしれません。信長さんが強引だったからこそ急成長出来たとも言えるかもしれませんが、いつもその手法だと停滞してしまう場合もあるのかなと記事を作っていて感じました。また長政さんのように以前の義理を尊重することで強敵を相手にしてしまい滅びるという結果になってしまうことがあるんですね。生き残るためには強いものにつくというのが安全なのかもしれませんが、その為に義理を欠くというのもむなしい気はします。難しいものですね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

信長さんと一部宗教勢力との関係について触れている話「織田信長さんが本願寺側と対立した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

本能寺の変直前の信長さんについて触れている話「信長さんの本能寺滞在にはどのような理由があったのでしょう」はこちらです。

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