信長さんが一向一揆を起こされたのはなぜだったのでしょう

信長さんが一向一揆に直面したのはなぜ

 

織田信長さんは現在の愛知県からはじまって岐阜、北陸、三重県、近畿などに勢力を拡大していくことになりますが、新たに勢力を広げた一部の地域では一向一揆が起き、その対策のためにたくさんの兵員を動員して鎮圧したと言われています。一向一揆の勢力が非常に強力なため、あの信長さんの軍勢が鎮圧に複数回失敗したとも言われています。一向一揆(いっこういっき)というのは他の仏教宗派の人々から一向宗(いっこうしゅう)などといわれた浄土真宗を熱心に信仰する信徒の人たちを中心にした集団が地域を統治している政治勢力に対して要求を掲げて抵抗する行為を意味します。信長さんが戦った浄土真宗の勢力としては今の大阪府内でおこなわれた石山合戦の相手、石山本願寺が有名ですが、その他にも現在の三重県北部、長島町のあたりでおこなわれた伊勢長島一向一揆との争いや越前、現在の福井県の一部の地域で強まった一向一揆との争いも有名なようです。一揆ですから地元でおこなわれた政治に不満があって発生するもののように思うのですけれど、信長さんが勢力を拡大していた頃、長島や越前でなぜ一向一揆が起きたのでしょう。浄土真宗の世界で発言力を持っていた人物が信長さんに対して抵抗することを呼びかけたことや地元の権力争いが理由となった、そのような事情があるようです。

 

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指導者の呼びかけに応じて

 

浄土真宗の世界では浄土真宗という宗派を開いた親鸞というお坊さんが非常に尊敬される対象ですし、その親鸞さんの子孫で代々浄土真宗の教えを受け継いでいるかたは法主 ほっしゅ(門主など複数の呼ばれかたがあるようですが)として信徒の人々から浄土真宗の偉大な指導者としてあがめられていました。信長さんが天下統一を目指していた頃、浄土真宗で法主だったのは浄土真宗の指導的な立場のお寺、石山本願寺の僧侶、顕如(けんにょ)さんでした。石山本願寺は当初から信長さんとの関係が悪かったということではなかったようですが、信長さん側から容認できない要求が出されたことを理由にして信長さんと戦をすることにしてしまいます。この戦は先ほども出てきた石山合戦(いしやまかっせん)と呼ばれる戦ですが、この戦が始まったのは元亀(げんき)元年、西暦1570年のことでした。顕如さんはこの石山合戦が始まってから国内の浄土真宗を信仰している人々に対して信長さんの軍勢に抵抗するよう呼びかけました。現在の三重県の北部、伊勢長島の一向一揆はこの顕如さんの呼びかけに応じて起きたと言われています。この一向一揆では信長さんの弟さんが守る城が一向一揆の勢力に攻撃され劣勢になった信長さんの弟さんは自害に追い込まれてしまいました。当初信長さんが派遣した軍勢は一揆側を鎮圧できずに撤退するようなことにもなっています(最後は大軍を率いた信長さんの軍勢に制圧されることになります)。戦国大名の軍勢に劣らない武力を持っていたということになります。

 

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現地の権力争いをきっかけに

 

越前の場合は一揆が発生した当初の経緯が伊勢長島の場合と異なっているようです。越前地方、現在の福井県の一部を治めていた戦国大名、朝倉家は信長さんの勢力により倒されてしまいました。朝倉家が倒れた後、現地の支配は信長さんに協力した武将が担当することとなります。かつて朝倉家に従っていた家臣であってもその後信長さんに従い自分の領地を引き続き所有して良いと許された人たちが複数おられたようです。信長さんの指示で越前の国全体の統治を任された人物について快く思わない旧朝倉家家臣が地元のお百姓さんたちを煽って一揆を起こさせ信長さんの代官的立場だった人を襲撃、命を奪ったそうです。その後一揆を煽った朝倉家の家臣だった人物が越前を統治することに一時はなったものの、この人物に対するお百姓さんたちの不満が強まり、結局一揆を煽った人物の言うことを聞かなくなっていきました。お百姓さんたちは隣国、加賀(現在の石川県の一部にあたる地域です)で一向一揆勢力を指導していた人物を招き自分たちの指導者にします。こうして信長さんが朝倉家から奪ったはずの地域、越前が一向一揆の勢力に支配される地域になってしまいました。本願寺の顕如さんの呼びかけもありますし信長さんに従う姿勢を見せることはありません。改めて信長さんは越前を支配下にするため一揆勢力を討伐しなければならなくなりました。

 

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今回はなぜ信長さんが一向一揆に直面したのかについて一部取りあげました。信長さんが宗教勢力を相手に戦った出来事の中でも長島の一向一揆などはかなり有名なようですし、どうして一向一揆が起きたのかについては一般的にも関心があるようですが、私自身はよく理由を理解していなかったこともあり、このようなテーマで記事を作ってみました。結局石山本願寺と信長さんとの戦争が始まってしまったことがそもそもの理由ということのようです。大坂の戦が三重県地方や福井県地方にまで波及してしまうわけですから当然天下統一したい信長さんにとっては大きな痛手だったことでしょう。こうした一揆への対策によって天下統一のための事業がけっこう遅れてしまったのかもしれません。石山本願寺から顕如さんたち浄土真宗の勢力は立ち退くようにと信長さんが言わずに国内の有力戦国大名たちとの戦いに専念していたら歴史もだいぶ変わっていたのでしょうか。一度に複数の戦国大名や浄土真宗の勢力を相手にして戦いを継続しても織田勢が衰退しなかったのは大したものだという見方も出来るかと思います。普通であれば他の勢力に比較して相当優位でなければ潰されてしまうのではないでしょうか。持ちこたえることが出来たのは先日扱いましたが堺のような重要地域を信長さんが支配下に収めたことも大きく関係するところなのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

信長さんと石山本願寺の対立について触れている話「織田信長さんが本願寺側と対立した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

信長さんの政策で一部階層に経済的損失が出る話「信長さんが楽市楽座を実施した目的は何だったのでしょう」はこちらです。

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