戦国大名の北条家と徳川方はどのような関係だったのでしょう

北条家と徳川方の関係

 

関東地方に広大な領地を持っていた戦国大名の北条家は国内の多くの地域を支配下に置いた豊臣秀吉さんに攻撃され、敗れることによって没落することとなりました。200万石を超える領地を保有していた立場だったのが、一時期は大名と言われる基準である1万石以上の領地も持つことが出来ない身分となってしまいます。後に秀吉さんや家康さんの温情で1万石を超える領地の保有が認められ狭山藩(さやまはん)と名乗る国を明治維新の時まで取り潰されることもなく維持することとなりました。先日北条家と織田家の関係に触れる記事を作りましたが、その中でも書きましたように北条家は織田信長さんが活躍する期間は信長さんに臣従する姿勢をとっています。それでは織田軍と同盟関係にあった徳川方は北条家とどのような関係にあったのでしょう。北条家は信長さんが存命中は徳川方と良好な関係を持っていたようですが、信長さんが京都で亡くなられた後、関係が悪化し戦をすることになります。しかしこの戦も和睦となり、それ以降は姻戚関係も出来、協力する関係になっていきました。秀吉さんが台頭することとなって徳川は秀吉さんに臣従する判断を取り、北条家との間のそれまでのような協力関係は維持できなくなったようですが、徳川側は北条家が秀吉さんに攻撃されることの無いよう北条家の指導者に上洛して秀吉さんに臣従の姿勢をとるようたびたび説得することとなります。しかし北条側は秀吉さんに従わず戦争となり、秀吉さん側に家康さんもついていたわけですから北条家が没落する直前は北条と徳川は敵対関係だったということになります。協力関係で始まり戦となって和睦。また協力関係となり徳川が秀吉さん側につくことで協力関係に距離が出来、秀吉さんの北条征伐によって敵対関係となり北条家が敗れ没落、北条と徳川の関係はそのような経過をたどったようです。領土争いで一時期戦をし、北条側が没落する直前にも敵対はしましたが、協力関係にあった時期も長かった間柄のようです。

 

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最初の協力関係

 

北条家は隣接する戦国大名の武田家と同盟を結ぶ関係にありましたが、越後(現在の新潟県にあたる地域)の戦国大名、上杉家の後継者争いである御館の乱(おたてのらん 天正6年、西暦1578年に始まります)で、この戦の当事者の一人であった北条家にゆかりのある人物を武田側が支援しなかったことにより武田と北条の関係が悪化し同盟関係がその後解消となってしまいます。上杉家や武田家といった周囲の戦国大名と敵対関係になった北条側は同じく武田と敵対する関係にある徳川と協力関係を築くこととなりました。この関係が築かれた理由は織田と北条の協力関係が出来た理由と同様です。織田・徳川連合軍と北条家は協力して武田勢を攻撃し天正10年、西暦1582年に戦国大名としての武田家は滅びることとなります。

 

信長さんが亡くなった後

 

大名としての武田が滅んで間もなく信長さんは京で襲撃され命を落とすこととなります。本能寺の変です。これによって織田家中がまとまらなくなり、かつて武田家が領有していた地域を治める存在がすっぽりと抜けてしまう形となり、周辺の戦国大名がその領地を巡って争うこととなります。北条家と徳川家はこの時に戦っています。天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる戦です。どちらかが一方的に勝利するような展開にはならず、織田信長さんの子息が仲介となって北条と徳川は和睦することとなりました。領地分けの協議をおこない、北条家の当主、北条氏直さんに徳川家康さんの娘さんが嫁ぐこととなります。北条家と徳川家の間で縁戚関係が出来ました。

 

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徳川が秀吉さんに臣従

 

家康さんは織田家中で台頭する秀吉さんと対立する関係になり、小牧・長久手の戦いと呼ばれる戦もおこないます。秀吉さんと対抗するために家康さんは北条家と同盟関係を結びました。しかし秀吉さんは戦ではなく身内の方々を人質として家康さんのもとに派遣して家康さんを臣従させる方法を取り、家康さんもとうとう秀吉さんの臣下となる決断を下しました。秀吉さんとの戦を想定して北条側と同盟を結んだ家康さんですが、秀吉さんに臣従する姿勢をとることにしたため北条家と距離が出来ることとなります。しかし一旦は同盟関係を結んだ間柄ということもあって家康さんは北条家の指導者である北条氏政さんや北条氏直さんに、秀吉さんに攻め滅ぼされない為にも秀吉さんに臣従する姿勢を示したほうがいいですよと説得にあたったそうです。しかし家康さんの説得もむなしく北条家は秀吉さんに従う姿勢をとるに至らず、秀吉さん側と北条家の戦になってしまいました。徳川勢は秀吉さんの臣下の立場なので秀吉さんの指揮のもと天正18年、西暦1590年の小田原征伐の時に北条軍と戦っています。この戦いで北条側は結果的に降伏、有力戦国大名の立場を失うこととなりました。

 

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今回は北条家と徳川家の関係について取りあげました。北条家と織田家の関係について先日取りあげましたが、織田家と同盟関係にある徳川との間はどうだったのだろうと思い、織田家が衰退してその一方で徳川家が勢力を拡大することにもなったわけですし、このようなテーマで記事を作ってみることにしました。戦をしたり同盟関係を結んだりとその時の状況によって諸勢力の立場というものは変わっていくものだということが今回の関係を見てみても感じられます。生き残るためとはいえ厳しい話です。ただ、家康さんが北条氏政さんたちに秀吉さんへの臣従をはたらきかけるあたりは身内が北条家に嫁いでいるという事情もあったからなのでしょうけれど、かつて同盟を結んだ相手に対する義理もあってやったことなのかもしれません。秀吉さんから頼まれて家康さんが北条にはたらきかけたということも考えられるのでしょう。同盟関係というのは状況の変化によって解消ということになる危険性がありますが、だまし討ちをしない義理堅い相手と出来れば提携したいものですし、自分たちの側、日本が相手を裏切るような存在となって欲しくはないものです。現在日本が結んでいる同盟関係の場合はこれからどうなるのでしょう。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

家康さんの島津家への対応について触れている話「島津家は関ヶ原の戦いの後どうやって領地を保ったのでしょう」はこちらです。

家康さんの毛利家への対応について触れている話「関ヶ原の戦いのあと毛利家の領地はどうなったのでしょう」はこちらです。

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