豊臣秀吉さんと伊達政宗さんの関係はどうだったのでしょう

豊臣秀吉さんと伊達政宗さんの関係

 

秀吉さんは天正18年、西暦1590年に関東の有力大名である北条氏を武力征伐し、東北地方の有力な武将たちを自分の服属下に置くことに成功し天下統一を成し遂げることになります。この時に東北地方内の広大な領地を支配下に置いていた武将、伊達政宗さんは秀吉さんに直接面会し臣下として従う姿勢を示しました。政宗さんのこの動きに関しては臣従する時期がかなり遅かったことで秀吉さんの政宗さんに対する印象はあまり良くなかったとも言われています。しかし政宗さんが率いる伊達家が保有していた多くの領地は多少減らされはしたものの秀吉さんに没収されることはなく、徳川家康さんが治める時代まで保っています。秀吉さんが政治を仕切っていた期間、豊臣家から討伐されることもなく、結果的には明治維新まで伊達家は大名として存続することに成功するわけですが、豊臣家の勢いが盛んだったころ、秀吉さんと政宗さんの関係はどういった変化をたどったのでしょう。明治まで大名として存続できたわけですし、後に秀吉さんに優遇されるようになったのでしょうか。政宗さんは秀吉さんに臣下として従う姿勢を秀吉さんの天下統一の際に示してから、はっきりとした反逆行為をおこなうようなことはしていません。しかし一時期秀吉さんの後継者と目された人物との関係が深すぎることで、その人物が失脚してしまった時に秀吉さんから政宗さんも制裁対象として目を付けられてしまったことがあったようです。何とかひどい目に遭わないで済みはしたものの、結果的には他の有力大名、前田家、毛利家や上杉家、宇喜多家、徳川家などに比べそれ程秀吉さんとの関係は強くなかったようです。

 

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最初の接触

 

政宗さんが伊達家の当主となったのは天正12年、西暦1584年でした。当主となった政宗さんは諸事情あり自分の領地周辺の有力武将との戦を続ける結果となります。そして天正15年、西暦1587年、当主となってから3年後、秀吉さんから(他の東北地方の武将に対してもですが)伊達家当主の政宗さんに対し周辺の武将との戦をやめるよう指示が出されます。しかし政宗さんはこの指示に対しすぐに従ったわけではありませんでした。戦を停戦することが出来た西暦1588年に政宗さんは秀吉さんに従いますという姿勢を示すことになります。それに対し秀吉さんは1589年に大坂に本人が上洛して秀吉さんに面会し臣従の姿勢を示すよう指示したそうです。しかし政宗さんは事情もあったのでしょうが結果的にこの指示に従いませんでした。そのため条件付きで秀吉さんは伊達家を武力討伐することも検討することになります。ただ有力大名北条家を倒すために秀吉さんが小田原に攻め入ることになって時間的な猶予が出来、小田原攻めに参加せよという秀吉さんの指示にギリギリのタイミングで政宗さんが従ったことで秀吉さんによる伊達家討伐は回避されることになりました。これにより政宗さんは秀吉さんの臣下の一人となります。

 

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臣従後

 

秀吉さんは政宗さんが支配下に置いていた領地の内、戦をやめるよう指示した以降戦をおこなったということが理由なのでしょうか、会津地域を政宗さんから没収しましたがそれ以外の広大な領地を伊達家のものとして認めることにしました。ただその後今の宮城県地域などで発生した反乱行動を裏で扇動したという疑いをかけられ秀吉さんから領地の一部を没収されるというような処罰を受けてはいます。また秀吉さんの後継者と一時は見られていた豊臣秀次さんと政宗さんの関係が深く、秀吉さんと秀次さんが対立関係になり秀次さんとその周辺の人たちが死に追いやられるような制裁を加えられた際には政宗さんも秀次さんと一緒に秀吉さんに対する反逆行為を企てたと疑われ大幅に領地を減らされそうな危機に直面したこともありました。しかし関係者のとりなしで秀吉さんも厳しい処罰を科すことは見送ったようです。というわけで臣従後も政宗さんは秀吉さんににらまれてしまう場面が複数あり、大きな領地を持つ有力大名ではあるものの五大老として政権に参画するような有力大名、前田家、徳川家、毛利家、上杉家、宇喜多家のように秀吉さんから強く信頼される立場ではなかったようです。

 

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今回は戦国時代の有力な武将である伊達政宗さんと秀吉さんの関係について一部取りあげました。秀吉さんの業績を新しいものからさかのぼって取りあげていこうと思ったのですが、天下統一の時期にギリギリの状況で秀吉さんに従う姿勢を示した政宗さんについてまずは記事にしてみようと考え、このようなテーマで調べてみました。侍の中で頂点に立つ秀吉さんから「反乱行為をしている」と疑われれば立場が危うくなることは明らかですが、小田原征伐以降も何かと秀吉さんに目を付けられてしまっていたようです。政宗さん本人に何も身に覚えがないことなのか、それとも秀吉さんがにらんだように裏で企てをはかっていたのか何ともわかりませんが、火の無いところに煙は立たないと言いますし、他の大名に比べ徹頭徹尾秀吉さんに従うという姿勢ではなかったのかもしれません。次に力を持つ勢力を見抜く才能に長けていたということなのか、豊臣家に対する忠誠心がそれほど無かったということなのか、秀吉さんが亡くなってからは家康さんとの関係を深めていくことになり、外様大名という立場ではありましたが家康さんに広大な領地を保有することを認めさせることに政宗さんは成功しました。江戸時代も伊達家の領地は仙台藩として存続することとなります。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

秀吉さんと他の武将の関係について触れている話「真田幸村さんは秀吉さんとどのような関係にあったのでしょう」はこちらです。

豊臣家を守ろうとした石田三成さんの最期について触れている話「関ヶ原の戦いで石田三成さんは最後にどうなったのでしょう」はこちらです。

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