秀吉さんがバテレン追放令を出した理由は何だったのでしょう

秀吉さんがバテレン追放令を出した理由

 

豊臣秀吉さんはまだ天下統一が達成されていない時期、天正15年、西暦1587年に「バテレン追放令」と呼ばれる命令を治めていた地域で出しています。このバテレン追放令のバテレンというのはポルトガル語やスペイン語、イタリア語でパードレと呼ばれるキリスト教の神父さんを意味する言葉から来ている呼び名だそうです。バテレンを追放する命令ですから、ポルトガルやスペインのキリスト教神父を追放、日本から出て行かせる命令なのかというとそれだけにとどまっていなかったようです。大名となっている武将がキリスト教を信仰するためには(朝廷や秀吉さんを中心とする政治組織の)許可が必要だといった内容も含まれていました。それまでキリスト教に関する目立った規制が国内で実施されていたわけではなかったようですが、このバテレン追放令の登場でキリスト教布教が以前に比べてやりにくくなったということではあるようです。当時の日本で最も発言力の強い武将だった豊臣秀吉さんがキリスト教に関する規制であるバテレン追放令を出した理由というのは何だったのでしょう。追放令の内容を見ると理由となる内容が推測されます。キリスト教を信仰する勢力の拡大を恐れたからというものやキリスト教に関係する人々の一部の行動を問題視している内容も追放令に含まれています。他には代表的なキリシタン大名の行動が関連しているといった見方もあるようです。

 

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反乱を恐れたから

 

キリスト教を信じる人たちが結束して行動し領地を治める大名、ひいては秀吉さんに反抗することを心配していたという理由です。追放令の内容とは別に秀吉さんがそのようなことを心配していたとうかがわせる記録も残されているようです。宗教は異なりますが仏教の宗派でも信長さんや秀吉さんの命令に強く抵抗した勢力も存在したことは事実ですし、キリスト教の信者たちの勢力が急速に拡大しそのような統治を乱す存在となってしまうことを警戒していたとしても全く不思議ではありません。追放令の中には一向宗という仏教の一宗派の勢力とキリスト教信者の勢力が協力するような状況を憂慮している箇所があります。

 

問題行為

 

キリスト教を信じる人が他の地域住民と衝突することなく平和に宗教活動をしているなら統治する側の懸念も強まることは無いのでしょうけれど、キリスト教信者が地域内の他の宗教にとって重要な施設を破壊したり、当時の農業従事者が農作地を耕すなどする際に非常に役立つ牛など、生産活動に必要な動物を布教する他国のキリスト教関係者が食べてしまうことや日本人の人身売買に関与するといった支配領域を治める側としては看過できない行為が秀吉さんにも伝わっていたようです。追放令の中にはそのような行為を糾弾する内容も含まれています。

 

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キリシタン大名の行動

 

これは教科書にも掲載されているようですが九州の肥前(現在の佐賀県や長崎県)に領地を持っていた大村家という大名がいました。秀吉さんが力を持っていた当時大村純忠という人が当主でした。彼はキリスト教を信仰し長崎の地を拠点としたポルトガルとの交易で利益を得ることに成功するのですが、彼が治めていた地域の一部である長崎の港などを含む領地をキリスト教の布教活動を世界的な規模で展開する修道会の一つ、イエズス会に与えてしまいます。日本の領地の一部を外国勢力に与えてしまうキリシタン大名の行為に危機感を覚えたということなのでしょう。大名がキリスト教を信仰する場合許可が必要ということにしましたし、秀吉さんはイエズス会に与えた長崎の地を後に取り戻し、大村さんの領地ではなく秀吉さんの直接管理する土地、直轄地にしました。

 

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今回は秀吉さんがバテレン追放令を出した理由について一部取りあげました。秀吉さんが国内で強い影響力を持っていた頃におこなった有名な政策について調べてみようと思ったのですが、バテレン追放令については一般的にも関心が集まる話のようなのでこのようなテーマで記事を作っています。キリシタン大名の命令があったからという場合もあるのでしょうが、キリスト教信者が、従来存在する他の宗教の重要施設を破壊などしたらトラブルになってしまうのは当たり前ですよね。自分の信じている宗教だけが本物だという思いが強ければそういった行動も出来てしまうのかもしれませんが、そうなると他宗教の信者との衝突は避けられないのでしょう。日本人を他国に奴隷として売ってしまうような話についてはキリスト教関係者がどの程度関わっていたのかよくわかりませんが、もしキリスト教関係者が本当に関わっていたのだとしたらキリスト教の教義と実際やっている行為に矛盾を感じなかったのだろうかと疑問を感じざるを得ません。バテレン追放令が出されても貿易に関わる商人が布教せず商売だけするのなら日本に寄留してもいいことにしていたようです。そういった意味ではバテレン追放令は徹底した規制ではありませんでした。キリスト教の脅威を感じても完全に布教に熱心なポルトガルやスペインなどとの関係を断つことが出来ないくらい南蛮貿易というのは国内を治める側としては利益のあるものだったんですね。布教と(貿易による)経済的利益をセットにして他国に接触するというのは布教上非常に効果的だったということがこういったことからもうかがわれるように思います。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

徳川家が仕切る世の中でのキリスト教政策について触れている話「江戸時代にキリスト教が禁止された理由は何なのでしょう」はこちらです。

欧州のキリスト教布教に対する反応について触れている話「長崎が出島の作られる場所となった理由は何なのでしょう」はこちらです。

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