終戦時に発生した陸軍軍人の一部による反乱について

終戦時の一部陸軍軍人による反乱、宮城事件とは

宮城事件(きゅうじょうじけん)とは西暦1945年の8月15日に一部の陸軍軍人たちが武力を用いて政治に介入しようとした出来事です。この一部軍人たちによる行動は8月15日中におさまり、昭和天皇の玉音放送(ぎょくおんほうそう)、終戦の詔書(しょうしょ 詔書というのは天皇が意思表示された公文書のことです)をお読みになられた録音放送ですが、その放送が予定通りおこなわれて日本国民は戦争が終わったと知ることになります。ちなみにこの記事のタイトルに入れた「反乱」の言葉ですが統治者に背いて武力行動を起こすという意味で使用しております。

8月14日の御前会議後

8月14日に開かれた昭和天皇が参加される会議、御前会議で昭和天皇の再度の御聖断により連合国側にこれ以上の国体護持(こくたいごじ 日本国の中にあって天皇の立場や権限を保つことを意味する言葉です)の確認要請をせず、そのままポツダム宣言を受け入れるという結論が出されました。このような結論が会議で出たのですが陸軍の作戦を出す部署、陸軍参謀本部に所属する一部の陸軍将校たちは連合国側が必ず国体護持を約束するという確証が得られるまで戦争を続けるべきだと考え当時の政権を担当していた鈴木貫太郎総理大臣など諸大臣を身柄拘束し戒厳令を出して軍が鈴木内閣から政治の実権を奪うことが出来るようにする計画を立てました。戒厳令は国が出す一つの法令で治安維持などを目的として通常の国の行政、立法、司法といった機能を停止し軍がそれらの機能を引き継ぎ、実務を迅速に処理するためのものです。災害など世の中が混乱した際に出すものですが政権を奪おうとした一部軍人たちはこの制度を利用しようとしたということです。

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事件の発生

クーデター決行派は8月15日深夜に天皇の警護をおこなう部隊、近衛師団(このえしだん)の師団長である森中将に面会しクーデター計画に参加するよう要求しました。しかし森中将はその要求に応じなかったことで決行派に銃撃され亡くなられてしまいました。森中将と面談中だった軍関係者もこの時に殺害されています。決行派に参加した近衛師団に所属する将校がその後、出されていない命令を近衛師団の兵員たちに出し宮城を取り囲み外部と連絡が取れないようにしました。また8月14日の夜、昭和天皇が終戦の詔書をお読みになりそれを録音したレコード(玉音盤 ぎょくおんばんと言うそうです)が作成されましたが、関係者からその玉音盤を奪って8月15日にその玉音盤を放送させないようにしようとしました。また千代田区内にある日本放送協会の放送会館に近衛師団の兵員を派遣し玉音放送を中止しようとしました。

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事件への対応

陸軍に所属する軍の一つであり東京も含め東日本を管轄していた東部軍(とうぶぐん)はこの決行派の動きを察知し決行派を鎮圧することとなります。東部軍の幹部が近衛師団に所属し宮城を取り囲んで外部と隔離していた部隊の責任者と接触し、近衛師団将校から部隊に出された命令は偽の命令であることを伝えることが出来ました。それによって宮城を取り囲んでいた部隊、近衛第一師団近衛歩兵第二連隊に対し東部軍の当時司令官だった田中大将が撤収するよう命令し、部隊もそれに従いました。第二連隊の連隊長は偽命令を出して宮城内にとどまっていた決行派の近衛師団将校に宮城から出ていくよう指示し、決行派は宮城を離れることとなります。放送会館に派遣されることになっていた近衛師団の部隊も東部軍からの連絡により偽命令だったことが伝えられ出動は中止されました。宮城を離れざるを得なくなった決行派は放送会館に向かい自分たちが行動にいたった主旨を放送させようとしましたが、これも東部軍側からの働きかけで中止となります。こうして決行派が宮城で奪い取ろうとして捜索したものの見つけられず、決行派の手に渡らずに済んだ玉音盤はその後放送会館へ運ばれ予定通り放送されることとなりました。決行派の一部の軍人たちはその後自害したのだそうです。

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今回は8月14日の御前会議以降に動きのあった宮城事件を取りあげました。陸軍の指示を出す部署の将校が政権を奪おうとした出来事ですし、昭和天皇が明確に御聖断をされたにもかかわらずおこなったことなので非常に重大だと思い記事にしてみることにしました。上でも書きましたが近衛師団の司令官である方とその関係者である軍人の方が殺害されており全く犠牲者が出なかったわけではありません。ただ東部軍と偽命令で出動した近衛師団の部隊が武力衝突するようなことにはなりませんでした。そうなっていたらもっと犠牲者が出ていたでしょう。クーデター決行派がこだわっていたのは国体護持が確実なのかどうかという点だったようですが、昭和天皇が直接結論を出されたにもかかわらず、敢えてこのような行動をしたわけです。この人たちにとって日本の皇室制度は何が何でも守らなければならないものだったということですよね。結局それが昭和天皇の御意向に背く結果になるというのも皮肉ではあります。決行派は軍の司令官など様々な人にクーデター参加を持ちかけますが、参加者が増えなかったのはやはり昭和天皇があのような結論をお出しになった後だったからなのでしょう。昭和天皇の影響力の強さがこの事件でもよい方向に働いていたのではないかと感じました。上では書きませんでしたが、この時期別の軍関係者がポツダム宣言を受け入れず戦争を続けることを主張して首相官邸を襲ったり内大臣や一部御皇族の方の自宅に火をかけるような凶行をはたらくような出来事も起きていたそうです。このような過激派を抑え戦争を終わらせるということは本当に大変なことだったのですね。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。今回の記事ではyukarin31さんによる写真ACからの写真を使わせていただいてます。

日本政府のポツダム宣言受諾について触れている話「一条件でのポツダム宣言受諾とした御前会議の構成メンバーは」はこちらです。

ポツダム宣言受諾に決定的な影響を与えた天皇の御発言について触れている話「終戦を決定付けた御前会議での昭和天皇の御発言の概要は」はこちらです。

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