日明貿易で勘合というものが使われたのはなぜなのでしょう

日明貿易で勘合が使われたのはなぜ

室町時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに室町時代におこなわれていた貿易で勘合(かんごう)というものがなぜ使われていたのかについて書いてみたいと思います。西暦1368年に中国大陸に明という国が誕生し、応永十一年、西暦1404年からその国と当時の日本の政権、室町幕府は貿易をすることとなりました。日明貿易(にちみんぼうえき)とか勘合貿易などと呼ばれている日本と明の二国間貿易です。この時期室町幕府の将軍だったのは第三代将軍、足利義満(あしかがよしみつ)さんでした。この貿易をおこなうにあたって勘合と呼ばれるものが使われていました。勘合というのは勘合符(かんごうふ)とも呼ばれるもので日本側と明側がそれぞれ所有しており、日本と明の勘合を合わせることで正しい貿易船かどうかを判別していたと言われています。他の時代の中国大陸の国との貿易でそういった仕組みを耳にすることはありませんが、当時このような勘合を用いる仕組みを取り入れていたのはなぜだったのでしょう。海賊対策のためという理由がよく指摘されています。また明国独自というわけでもないようですが他国との交流に関し制限が設けられていたといった点も関係しているようです。

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海賊と貿易しないため

日本と明の間で貿易がおこなわれていた頃、船舶が利用する航路の周辺では海賊による犯罪がたびたび起きていました。大陸の沿岸地域を襲撃して食料を奪ったり住民の方々を連れ去って売買するといった悪行もしていたようですし、貿易のような普通の商取引をする場合もありました。海賊となっていた者には日本人が多かったそうで(日本人だけではなかったそうですけれど)、大陸の人々が倭寇(わこう)といって恐れたそうです。海賊のような連中をのさばらせたくはありませんし、このような犯罪行為をおこなう集団を貿易で儲けさせてしまうと勢力が強まってしまいますので、明としては貿易の業界からこのような倭寇を締め出したいと考えました。当たり前ですよね。日本の政権が認めるちゃんとした貿易船なのか、それとも正規の貿易船を装っている海賊の貿易船なのかきちんと見分けなければなりませんでした。そのために採用されたのが勘合という名の渡航許可証です。これは文字と数字が書かれた札のようなものを半分に切って、片方を日本の幕府に、もう一方を明の役所が保有して正規の貿易船に使用させたものです。日本側の勘合と明側の勘合を合わせて半分に切られた文字や数字がきちんと合うかどうか確認することで本物の貿易船かどうかを識別したそうです。勘合を持っていない貿易船は明との貿易がおおっぴらに出来なくなってしまい海賊集団は貿易によって利益を得ることが以前に比べ難しくなりました。

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明の政策

明という国だけがそうであったというわけではないのですが、中国大陸の大国は基本的に自国の一般民衆が他国と交易するのを禁止させたいと考えがちだったようです。大陸の沿岸地域の人々が貿易によって利益を得て経済的に強くなることで中央政府の指示に従わなくなることを恐れたからなのだそうです。そのため明の中央政府は他国との交易を厳しく規制しました。明に朝貢、明の属国として貢物を差し出すような国とだけ交易をするのを許可しています。明の政府は出来るだけ朝貢国を増やしたいと考えていました。朝貢国になるなら貿易はしてもいいよということで相手の足もとを見て明の従属国という立場にしてから交易をおこなうわけです。そのような明の中央政府と朝貢国に限定した管理貿易をする上でも勘合という渡航許可証を利用した仕組みは役に立ったようです。室町幕府が明と交易する場合も朝貢国という立場で取引をしています。

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今回は日明貿易で勘合が使われた理由について取り上げました。足利義満さんの時代に明との貿易が盛んにおこなわれたという話を久しぶりに目にして日明貿易に関係した記事を作ってみたく勘合についての一般的な関心もあるようだったので今回のようなテーマの記事にしてみました。貿易を管理して倭寇との交易を排除して海賊勢力の経済力を削ぐとか、大陸の沿岸地域の人々がお金持ちになって中央政府の言うことを聞かなくなるのを防ぐといった話を知る結果となり、貿易というのはすごくお金の儲かる経済行為なのだなぁと改めて感じました(やり方にももちろんよるのでしょうけれど)。また日本が明に朝貢していたというのは個人的にこれまであまり意識していませんでしたが重大な点でもあるのかなと思います。明から足利義満さんに日本国王に任じるといった意味の印鑑を渡しているという事実も今回初めて知りました。この件に関して日本の朝廷はどういった位置付けだったのか説明しているものを見かけなかったので、そこはよくわかりません。日本側は明との関係で敢えて天皇を関与させないことで天皇が明の皇帝に服従する関係となるのを避けたということなのかもしれませんが、どうなのでしょうね。義満さんも朝貢という形式をとることは愉快ではなかったのだろうと勝手に推測していますが、面子よりも経済的な利益を選んだというところでしょうか。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。今回使用している写真はハダシストさんによる写真ACからの写真です。

江戸幕府と中国大陸の王朝の関係について触れている話「江戸時代の日本は中国大陸の国とどんな関係だったのでしょう」はこちらです。

日本が明国とも戦った朝鮮出兵について触れている話「秀吉さんが命じた朝鮮出兵はどんな結果になったのでしょう」はこちらです。

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