日本の南北朝を統一させた人物は誰だったのでしょう

南北朝を統一させた人物

室町時代の歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに日本の南北朝を統一した人物などについて書いてみたいと思います。鎌倉幕府が消滅し後醍醐天皇を中心とした政治がおこなわれることとなりますが足利尊氏さんたちを中心とした武士勢力が後醍醐天皇側と対立し尊氏さんが京都を制圧して別の天皇を立てます。後醍醐天皇は京から避難し奈良の吉野(よしの)に移動しました。ここから京にいる天皇の組織を北朝、吉野にいる天皇の組織を南朝と呼び朝廷が二つ存在する時代が始まってしまいます。この二つの朝廷が一つになったのは明徳(めいとく)三年、西暦1392年でした。南北朝に分かれてから56年後のことです。朝廷を一つにしたのは足利尊氏さんの子孫(尊氏さんのお孫さん)にあたる足利義満(あしかがよしみつ)さんというかたで、京で開かれた政権、室町幕府の第三代将軍となった人です。義満さんは両方の朝廷にはたらきかけて一応の合意を取り付けて朝廷を一つにまとめる話を進めたようですが結果的には一方の朝廷側の不満が強まる結果となってしまいました。

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朝廷を一つにまとめるにあたって

京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)を一つにまとめるにあたって双方の意向もあり、いくつか約束事が結ばれます。三種の神器(さんじゅのしんき、じんぎ、しんぎ)と言われる歴代の天皇が受け継いできた皇室の宝物があるのですが、それを保有していたのは南朝側だったのだそうです。この三種の神器を南朝側が北朝側に譲り渡すこととなりました。譲り渡したからといって南朝側が皇室から切り離されるということではなく、今後皇位には北朝側の皇族、南朝側の皇族が交互につくということとなりました。一つにまとまった朝廷でも自分たちの血統の人物が天皇に就任できるということで南朝側は妥協して北朝側に三種の神器を譲り渡したわけです。その他にも南朝側の皇族の経済的利益を保証するため領地の確保についても約束が交わされることとなりました。南朝側が足利義満さん側のはたらきかけに応じたのは義満さんが国内の有力な武士勢力を立て続けに制圧することに成功したことで義満さんの影響力が非常に増していたからといった見方もあるようです。

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実際には

南朝の天皇、後亀山天皇の一行が京に到着し三種の神器を北朝側に渡すこととなります。それから皇位に就く人物は北朝側と南朝側、交互となったかというと、これが約束通りにはなりませんでした。南北朝が統一された明徳三年、西暦1392年に北朝の天皇だったのは後小松天皇というかたです。南朝の後亀山天皇が後小松天皇に皇位を譲るという形になったようで後亀山天皇は第九十九代の天皇、後小松天皇は第百代の天皇となっています。では第百一代の天皇はどなたかといいますと称光天皇(しょうこうてんのう)というかたです。この方の父親は後小松天皇です。ということは称光天皇も北朝の血統のかたです。次の代の天皇はというと後花園天皇(ごはなぞのてんのう)というかたでした。この方は称光天皇のお子さんではありません。かつて北朝側の天皇だった崇光天皇(すこうてんのう)というかたのひ孫にあたるかたです。北朝側の人物です。ということで後小松天皇以降皇位に就いた方々は北朝のかたがたでした。当初約束したような南北朝の人物が交互に即位するという話は実現しなかったのです。約束が守られないことに不満を持った後亀山上皇は義満さんが亡くなった後に一時また吉野に移ってしまうようなこともしたそうです。

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今回は南北朝の統一やそれをおこなった人物について一部取りあげました。国内に朝廷が二つ存在し対立していた時代がどのように収束したのかについては個人的に全然印象に残っておらず、誰がそれを成し遂げたのかについても覚えていませんでした。誰が統一したのかについては一般的に関心も持たれる話のようですし今回のようなテーマで記事を作ってどういった統一の仕方だったのか確認してみようと思いました。南朝側からすると三種の神器も対立相手に渡ってしまい、皇位に就くことも出来なくなってしまったということで「だまされた・・・」ということになりますね。ということで円満な朝廷の統一というわけではなかったようです。北朝と南朝が交互に皇位に就くということになると、また朝廷が分裂する原因になってしまうということで室町幕府もそれを防ぐために交互に就任という約束を反故にしたということなんでしょうか。対立するものを統一するというのはそれなりに無理が生じてしまうものなのかもしれません。南朝側が渡した三種の神器ですが、単なる宝物ではなく、天皇が皇位を受け継いだことを示すという意味もある非常に重要な品と位置付けられています。鏡と剣(つるぎ)と勾玉(まがたま)の三つですが、現在は鏡と勾玉は宮中に、剣は熱田神宮(あつたじんぐう)で祀られていると言われているのだそうです。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

南北朝前の後醍醐天皇がおこなった政治について触れている話「鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇はどんな政治をしたのでしょう」はこちらです。

後醍醐天皇と足利義満の祖父、足利尊氏の関係について触れている話「足利尊氏さんと後醍醐天皇はどんな関係だったのでしょう」はこちらです。

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