鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇はどんな政治をしたのでしょう
鎌倉幕府が終わった後の後醍醐天皇の政治
鎌倉時代末期、鎌倉幕府を仕切っていた北条家の人々が中心となって政治をしていましたが、それに不満を持った武士勢力によって元弘三年、西暦1333年に幕府の拠点、鎌倉の地を攻め落とされてしまい鎌倉幕府は滅びることとなりました。幕府が滅んだあと世の中を仕切ったのは実際に幕府を攻め滅ぼした武装勢力の指導者、武士の大将格の人物ではなく幕府に対する攻撃を呼びかけた権威ある人物、以前天皇の立場にあった後醍醐天皇(ごだいごてんのう)でした。自分の野心をこれまで阻んできた鎌倉幕府がいなくなり後醍醐天皇はかつて幕府から追い出されていた京に舞い戻り、当時天皇の立場にあった光厳天皇(こうごんてんのう)を逆に朝廷から追い出してしまいます。再び天皇の座についた後醍醐天皇は鎌倉幕府に成り代わり新しい政治をしようとしました。社会や歴史の授業でよく言われる「建武の新政 けんむのしんせい」です。後醍醐天皇による新しい政治というのはどのようなものだったのでしょう。特徴としては後醍醐天皇に権限が集中する政治だったことや武士や一部の公家は期待したほど報酬、権限が得られなかったことなどがよく挙げられます。
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天皇親政
後醍醐天皇は他人、有能な人材に政治の一切を任せるようなことはせず、自ら国内の土地の所有権の決定、役所の人事の決定に関与しようとしました。綸旨(りんじ)と呼ばれる天皇が内容を書き、署名する文書を発行して天皇本人の意思表示とする手法を頻繁に用いていたようです。様々な案件すべてに天皇本人が関与しようとしたため発行する綸旨の数は膨れ上がっていきました。件数が膨大なため物理的に天皇が全部の案件について指示出しをするのは無理ですねということになって、結局途中からは天皇本人の裁量ではなく地方の役人にその地域の土地所有権の決定を任せるようになったと言われています。鎌倉幕府のように武士勢力が国内政治を仕切るような体制を好まず、幕府という政治組織を有力な武将に任せ開かせるようなことはしませんでした。ただ地方を統治する必要はあるため地域ごとに役人を派遣し、統治上重要な地域には将軍府という機関を設置することになります。陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)は東北地方を治めるために作られた機関で鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)は関東地方を治めるために作られました。それらの機関のトップは後醍醐天皇のお子さんが就任し公家や武士が支えるといった体制だったようです。
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組織
政治の中央では最高意思決定機関である記録所(きろくしょ)というものが置かれ、京都の警備を担当する部署として武者所(むしゃどころ)、領地の訴訟問題を扱う部署に雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)、恩賞(おんしょう)、はたらきに対する褒美を与えるための部署として恩賞方(おんしょうがた)が置かれ、地方には国司(こくし)、守護(しゅご)といった立場の役人が派遣されました。国司は該当地域の政治(税関係の仕事など)を担当する役職で守護はその地域の治安の維持や武装勢力をまとめることを担当する役職です。特に重要ということで上の項目でふれた通り特定の地域については将軍府が置かれました。
不満
武士勢力、従来権限を持っていたもののその権限を奪われた一部の公家勢力は後醍醐天皇の政治に不満でした。何十年も自分の領地としていた土地が後醍醐天皇の考えで他者の所有する土地とされてしまったり、権限のある役職に任命されるのは後醍醐天皇と関係の深い人物である場合が多かったり、後醍醐天皇の指示、政策が一貫していなかったり、皇居の建設費用ねん出のため武士や武士の領地の民衆の税負担が重くなってしまったことなどを理由にして不満がたまっていったようです。鎌倉幕府滅亡によって自分たちにとって今よりましな政治がおこなわれる、そんな時代がやってくると期待していた武士勢力にとっては落胆する結果となってしまい後醍醐天皇を中心とする政治を否定する勢力が出てきてしまうことになります。
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今回は後醍醐天皇という人物が鎌倉幕府滅亡後どのような事をしたのかについて一部取り上げました。建武の新政が極短期間で終了したことは社会や歴史の授業でも扱っていたと思いますが自分が授業で学んだのははるか昔のことですので今一度確認したく、また室町幕府誕生の要因にもなる重要な所でもあるのでしょうからこのようなテーマの記事にしてみた次第です。後醍醐天皇は過去の天皇がおこなったと言われる理想的な政治や中国大陸の過去の王朝がおこなった政治に本来あるべき姿を見出して建武の新政をやったという指摘があります。後醍醐天皇は後醍醐天皇なりの理想を持って政治に関与したということなのでしょう。それで武士勢力も民衆も満足する政治であったのなら歴史でもそのような評価がされる時代として記録されたことでしょうし、もっと長く後醍醐天皇の政治が続いていたのだと思います。しかし現実はそうなりませんでした。政治の枠組みを大きく変化させた場合、成功するにせよ失敗するにせよ影響は大きいものとなるようです。後醍醐天皇は自身のおこなうことにそれなりのうまくいくという見通し、自信があったのかもしれませんが、ものの見事に外れてしまったわけで、もっと慎重さや客観性がこの件の場合は必要だったということなのかもしれません。後醍醐天皇が天皇親政にこだわらない人物であれば特権勢力の北条家がいなくなったわけだし、まずは武家の指導者格の公正な人物を新たに征夷大将軍に任命して鎌倉幕府と似たような組織を作ってうまくいくかやってみようといった鎌倉幕府の時代のやり方とちょっと変えてやってみるといった選択肢もあったのでしょうか。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
後醍醐天皇と対立する政権について触れている話「室町幕府という政権が京都におかれたのはなぜなのでしょう」はこちらです。
明治天皇を中心とする体制への転換について触れている話「王政復古の大号令とは?出された年号や出した人についても」はこちらです。
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