新選組の近藤勇さんは最後にどのようになったのでしょう

新選組の近藤勇さんの最後

 

江戸時代の末期に攘夷派、日本に対し開国するよう要求してくる他国に対し武力を使って追い払い要求を退けようという考えに立っている人たちのことですが、このような考えの勢力が京の都で違う考えを持った有力者を襲撃することが相次いで非常に治安が悪くなっていました。そのような状態の京で治安を守る役目である京都守護職を担当していたのが会津藩のお殿様だった松平容保(まつだいらかたもり)公です。この京都守護職である松平さんが京の治安維持のために作られた組織の一つである新撰組(しんせんぐみ)を支援していました。新選組は誕生した当初、組の中で激しい主導権争いがあり、対立した人々を切腹に追い込んだり襲撃して殺害することで結果的に近藤勇(こんどういさみ)さんという方が指導者となる組織としてまとまっていきます。この組織のトップは局長(きょくちょう)と呼ばれていました。新選組の存在が有名になったのは元治元年、西暦1864年の池田屋事件と呼ばれる出来事で、近藤さんを局長とする新選組は攘夷派の人たちが拠点としていた京都の旅館、池田屋に取り締まりのため立ち入り、攘夷派の侍たちと壮絶な斬り合いとなりました。攘夷派側の相当の数の方がこの時命を落とした結果、一部では京都御所に火を放って孝明天皇を拉致するという攘夷派の企てを新選組の働きによって未然に防ぐことが出来たと言われているようです。池田屋での事件で新選組の活動は幕府側で高く評価され近藤さんは将軍のお目見え、直接対面することが可能な幕府の臣下という立場にもなりました。幕末の時代劇でもよく取り上げられる新撰組の近藤勇さんですが、このかたは最後、どのような結末を迎えるのでしょう。近藤さんは京都で対立関係にあった人物から襲撃され重傷を負い、鳥羽伏見の戦いで幕府軍側が劣勢となったこともあって江戸に撤退しました。その後新政府軍が旧幕府側へ攻勢をかけるのを食い止めるために甲州(今の山梨県)で新政府軍を迎え撃とうとするものの成功せず、再び江戸に戻ります。下総、現在の千葉県の流山(ながれやま)でとどまっている所を近藤さんは新政府側に捕えられ、結果的には処刑されています。ということで流山に居たところを新政府軍に捕えられ処刑されてお亡くなりになった、というのが近藤勇さんの最後の状況ということになります。

 

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流山で

 

甲州で新政府軍を食い止めることが出来なかった近藤さんたちは流山にとどまり東北地方の藩と対峙する新政府軍を背後から攻撃するような計画を立てていたという指摘があるようです。新政府軍にそのような動きが知られ、近藤さんらの勢力が拠点としている流山を新政府軍が包囲し大久保大和という名前に変えていた近藤さんは捕まることになります。新政府軍側で近藤さんのことを知っている人物がおり、大久保と名乗ってはいたものの素性が明らかとなってしまいました。近藤さんへの処罰について薩摩藩の人たちは厳しい措置を取るつもりではなかったようですが、新選組の人たちが坂本龍馬さんを襲撃し殺害したと信じていた土佐藩の人たちが近藤さんに厳罰を科すことを主張し結果的に処刑されることとなったそうです。重罪人扱いのため切腹は許されていません。

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首は現在の東京都板橋区である板橋や京の三条河原で晒されてしまうこととなりました。関東で処刑された近藤さんの首をわざわざ京都に運んで三条河原にさらしたのは新政府側が近藤さんを重罪人として多くの人に示すためだったようです。三条河原は全国から京にやってくる人たちの利用する道路の近くにあり、全国から京に来たたくさんの人たちが目にすることとなる場所のため、これまでも重罪人とされた人々の首がさらされる場所となっていました。しかし近藤さんの首はその後行方が分からなくなってしまいます。近藤さんの墓所は処刑された板橋や出身地近くの三鷹市、新選組の方々が弔ったとされる会津若松、それらとは異なるいきさつで建てられた山形県米沢市の墓所など複数の場所に存在しています。

 

今回は新選組の近藤勇さんについて一部取りあげました。幕末の有名な方に関する記事を作ろうと思いましたが、歴史の教科書ではあまり取りあげられないものの新選組についての関心は強いようなので新選組の指導者、近藤さんに関する記事にしています。池田屋事件で活躍し幕府からも高く評価された近藤さんですが、最後は首をさらされるということで非常に厳しい結果となりました。

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幕府や会津藩の指示のもと仕事をしていたということだったのでしょうが、やむを得ず斬り捨てる場合も出てきてしまい、対立する側からは恨みを相当買っていたかたなのでしょう。戦に負けてしまうと負けた側の上に立つ方々は本当に大変です。土佐藩側の意向で近藤さんは処刑されることになったということですが、その理由となっている坂本龍馬さんの暗殺に関しては特に新選組による暗殺だと証明されているわけではないようです。ただ土佐藩の人たちが新撰組の仕業だと強く信じていたわけで、今回記事を作っている中で坂本さんの暗殺事件と近藤さんの刑罰内容に関わりがあったことを初めて知ることとなり意外な感じがしました。しかし本当に新選組が坂本さんを襲撃したのでしょうかね。江戸幕府所属の治安維持組織、京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)が坂本さんを襲撃し暗殺したという説もあるようです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

新選組が有名となった出来事について触れている話「池田屋事件とは?発生した場所や池田屋跡地の現在についても」はこちらです。

旧幕府勢力の大規模な抵抗について触れている話「箱館戦争とは?なぜ戦争が起きたかについても」はこちらです。

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