足利尊氏さんと後醍醐天皇はどんな関係だったのでしょう

足利尊氏さんと後醍醐天皇の関係

 

足利尊氏さんは鎌倉時代から有力な武士として活動していた人物であり、のちに朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されて京都を拠点にして政治権力を行使する立場となります。後醍醐天皇は鎌倉時代に一度天皇の立場となりますが鎌倉幕府との対立が激しくなって幕府を倒すよう呼びかけ反幕府勢力が決起するきっかけを作ることになった人物です。鎌倉幕府が滅んだあと政治をおこなう中心人物にもなりました。今挙げた足利尊氏さんと後醍醐天皇、このお二人はどのような関係にあったのでしょう。当初は敵対関係であり、その後鎌倉幕府を敵として同じ陣営で戦うこととなり、後醍醐天皇が主で、足利尊氏さんが家来という状態になります。幕府が滅び、後醍醐天皇が政治を仕切るようになってしばらく経過した後は思惑のズレが強まり敵対することとなりました。対立が強まり戦をするほど関係が悪化してしまいます。結果的には尊氏さんの勢力が後醍醐天皇の勢力を打ち負かし、京都から後醍醐天皇を追い出してしまうこととなります。その後、鎌倉幕府を滅ぼした頃のような主従関係に回復することはありませんでした。

 

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最初は敵対関係

 

後醍醐天皇は天皇を中心とした政治をおこなうことを望んでいたかただったので鎌倉幕府が日本の世の中を仕切っていることに不満を持ち、いろいろな方面から鎌倉幕府に対する不満がたまっていたこともあって幕府を倒す計画を実行に移します。鎌倉幕府は後醍醐天皇が起こした軍事行動に対抗し鎮圧、後醍醐天皇は罰として島流しとされました。この後醍醐天皇の計画した軍事行動の時、足利尊氏さんは鎌倉幕府の側に所属する武将として後醍醐天皇の陣営と戦いました。後醍醐天皇が幕府を倒しにかかろうとした最初の頃は尊氏さんと天皇は敵対する関係だったわけです。

 

三度目の倒幕行為の際に協力関係

 

後醍醐天皇はへこたれない方で、隠岐島(おきのしま)に流されてもその後島を抜け出し、反幕府勢力に幕府征伐を呼びかけました。後醍醐天皇の呼びかけに応じた勢力が幕府を倒しにかかるため鎌倉幕府も対抗します。京の反幕府勢力を鎮圧するよう幕府から命じられ京に向かった足利尊氏さん。幕府内でも非常に頼りにされていた存在だったようですが、彼は彼なりに当時の幕府の政治に不満を持っていたそうで幕府の命令に従わず、後醍醐天皇の陣営に参加してしまうという、鎌倉幕府から見ると裏切りにあたる行為をしました。尊氏さんは京に存在する幕府の拠点、六波羅探題(ろくはらたんだい 朝廷の監視や京の治安維持の役目を担う組織)を攻撃し、後醍醐天皇側が京を制圧することに貢献しました。反幕府勢力は幕府勢力との戦いに勝利し鎌倉幕府の中心地、鎌倉を支配下とすることに成功します。北条家の多くの人々は自害し幕府は滅んでしまいました。

 

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新しい政治を経て敵対関係

 

後醍醐天皇は幕府打倒に貢献した尊氏さんに領地を与えたり自分の諱(いみな 親や自分の仕える主といった限られた人々から呼ばれるような名前)、尊治(たかはる)から漢字一字をたかうじさんに与え、高氏から尊氏に名を改めさせた程ですので評価をしていたと言えます。しかし後醍醐天皇の新しい政治は武士社会や一部の公家勢力から支持されることの無い内容だったため後醍醐天皇による政治体制を倒そうという動きが出て来てしまいます。重要地域である関東でも反朝廷勢力の攻撃によって一時は朝廷側の軍勢が敗北してしまうことになりました。尊氏さんは自分を征夷大将軍に任命して関東の反朝廷勢力の征伐にあたるよう、指示を後醍醐天皇に求めましたが、後醍醐天皇は許可しませんでした。尊氏さんは天皇の許可が無い中、独断で軍勢を率い関東に遠征して反朝廷勢力と戦い勝利しました。ここあたりから後醍醐天皇と尊氏さんの関係がどんどん悪化します。尊氏さんは後醍醐天皇の命令を聞かず関東にとどまり戦の勝利に貢献した武士たちに天皇の許可なく恩賞としての領地を配分するようなことをしました。身勝手な行動だということで後醍醐天皇は尊氏さんを敵と見なし配下の軍勢に尊氏さんを倒すよう命令を出すこととなります。こうして鎌倉幕府打倒以降主従関係だった二者の関係は敵対関係に変化してしまいました。

 

京からの追い出し

 

足利尊氏さんは朝廷勢力と戦い、一時は敗戦したことで九州に逃げ込むようなこともありましたが、朝廷の政治に不満な武士がたくさんいたということでしょうか、その後盛り返して京に向かって進軍し結果的には後醍醐天皇の勢力を京都から追い出すことに成功します。そして後醍醐天皇に変わる新たな人物を天皇としてかつぎ、その天皇からは重職である征夷大将軍に任命してもらい尊氏さんが政治権力を行使することとなりました。後醍醐天皇は奈良の吉野に逃げ、自分こそが正統な天皇であることを主張し京都の尊氏さんの政権を倒そうとその後も試みました。しかし結果的に後醍醐天皇がふたたび政権の中枢に戻ることはありませんでした。天皇の立場にあった人物と戦い、京から追い出したことについて後ろめたい思いがあったのか尊氏さんは後醍醐天皇が亡くなった後、後醍醐天皇を弔うためのお寺、天龍寺(てんりゅうじ)を京に創らせたそうです。

 

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今回は足利尊氏さんと後醍醐天皇の関係について取り上げました。建武の新政以降の流れについて記事を作りたく、お二人の関係についての関心も一般的に持たれているようなのでこのようなテーマにしてみました。足利尊氏さんは今回取りあげたような出来事もあったため天皇に反逆した不届きな人物ということで明治時代以降、大変批判されることとなりました。第二次大戦後以降はそういった傾向も弱まったようですが。明治以降の日本国の体制では、天皇が絶大な権限、権威を持つ仕組みとなっていましたので、天皇に刃向う人物について許容する歴史観だと統治上非常に問題があるから尊氏さんについては良い評価のしようがなかったというところでしょうか。鎌倉幕府が滅んだあとの歴史を見てもわかる通り、都合次第では相手が天皇であっても武装勢力が敢えて戦をおこなうような、天皇の権威が必ずしも通用しなかった時代があったということになります。天皇の立場にあるかたが実際に政治をおこなうと不満に思う勢力が出てきて体制を打倒しようとする、そういった危険性が出てくるものなのかもしれません。皇室制度維持のためには天皇が直接政治をするよりも天皇が実際の政治をしかるべき他者に任せるという仕組みのほうが無難ということなんでしょうかね。また、共通の敵がいる時には関係が良く、共通の敵を倒した後は思惑がずれてきて対立関係に変化するというのは他の時代、他の国でもありがちなことのように感じます。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

後醍醐天皇の新しい政治について触れている話「鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇はどんな政治をしたのでしょう」はこちらです。

尊氏さんの政権について触れている話「室町幕府という政権が京都におかれたのはなぜなのでしょう」はこちらです。

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