御成敗式目(ごせいばいしきもく)とは?簡単に説明しますと

御成敗式目とは?簡単に言うと何なのでしょう

 

御成敗式目(ごせいばいしきもく)とは簡単に言うと規則、ルールです。この規則は鎌倉時代、鎌倉に武士による政権が設けられていた時代に作られました。どのような人を対象とした規則だったのか?というと、鎌倉の政権、鎌倉幕府に所属する武士(御家人「ごけにん」と言ったりします)やその武士の関係者、その武士が所有する領地で生活をしていたお百姓などの人々です。この規則の作成を指示した人は鎌倉の政権で政治を取り仕切っていた人物、北条泰時(ほうじょうやすとき)さんです。泰時さんは鎌倉の政権で執権(しっけん)という役職についていた人です。鎌倉の政権の中で本来一番権限がある人は将軍、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)という役職についている人でした。執権というのはその将軍職についている人物を補佐するために存在する役職です。ただ泰時さんが執権を担当していた時代は将軍に実質的な権限はあまり無かったようで、その代わりとして執権が政治を動かしていました。御成敗式目は武士が守らなければならない道徳や、所有する土地に関する規則、特定の役職を担当している人物がやるべき仕事の内容、相続に関する規則などなど、複数の分野に渡り、合計51条の規則を設定しています。この規則は貞永(じょうえい)元年、西暦1232年に定められることとなりました。定められた時の元号が貞永だったこともあって御成敗式目は貞永式目と呼ぶこともあります。式目(しきもく)というのは法的な規則を箇条書きにして集めたものに対する大昔の日本での呼び名であり、武士の方々に関する規則の場合にこのような表現が使われていたそうです。長くなってしまったでしょうか。御成敗式目を簡単に言うと以上のような内容になるかと思います。

 

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なぜ作ったのでしょう

 

泰時さんがわざわざそういった規則集を作るよう法的な分野に詳しい人達に指示したのはどうしてなのでしょう。幕府に所属する武士たちの間では長らく習慣が規則の役割を果たしていたそうですし、すでに文字にして定められている規則として公家(くげ 貴族の方々のことです)の世界で作られたものがありました。しかし貴族の方たちが作った規則というのは武士の世界に当てはめにくかったそうですし、鎌倉の政権が国内で影響力を増すようになってこれまでの習慣に頼って世の中を運営していると人々の間でいさかいが多くなってしまい何かと不便になって来ていたそうです。そのため武士の方々に合った規則を明文化したほうが訴え事のような摩擦も減るだろうということで泰時さんは規則集の作成に動いたようです。公家の方々が作った規則に比べ仮名が使われていてわかりやすい内容となっており武士の方々に受け入れられていきました。

 

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位置付け

 

武士の方々を対象として明文化された規則集はこの御成敗式目が初めてだったそうです。最初に出来たものだということで注目されているようですし、室町時代や戦国時代など後の時代でも武士が守るべき規則を定めるにあたってこの御成敗式目が大変参考にされることとなったそうです。また後に寺子屋など初等教育がおこなわれる場でこの規則集が教材として利用されたという側面もありました。文字に慣れ親しむ機会を与えるためだけではなく犯罪に対する罰則なども書かれているものなので、子供たちに道徳を教えたりするのに都合が良かったということなのかもしれません。ということで武士の方々に限らず他の身分の人たちも教養としてこの規則集、御成敗式目を学んでいたようです。

 

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今回は御成敗式目について取り上げました。義務教育の社会の授業でも割と早い段階(小学生の授業でも)でこの御成敗式目について扱われていたような気がします。規則集がどうしてそんなに社会や歴史の授業の中で大切なものとして取りあげられていたのかよくわかりませんでしたし、御成敗式目の具体的な内容に関しても全然知らなかったので確認の意味で今回このようなテーマの記事を作ってみました。後醍醐天皇が鎌倉幕府の滅亡後朝廷を中心とした政治をおこないましたが、武士の人々から不満が噴出したそうです。不満の理由として勝手に後醍醐天皇が人々の土地の所有権に口出ししたことが挙げられますが、武士の人々がその際規範としていたのはこの御成敗式目でした。御成敗式目には20年以上実質的に所有している土地はその人のものといったルールがあるようですが、後醍醐天皇はそういったものを無視して土地の所有者を決定してしまったので財産を失う羽目になった人も出てしまいました。不満が出るのも当然のような気がします。それまでの規則や慣習を無視して強引に政治を進めるとうまくいかないことが頻発してしまうものなのかもしれません。主に武士の方々を対象とした規則集が後に児童たちの教材として利用されたというのは意外な感じがしました。今の世の中で言えば小学生が文字の学習をする際に大日本帝国憲法の重要な条文や五箇条の御誓文、五榜の掲示を教材にするようなものでしょうか。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

別の時代に作られた大名などを対象とする規則について触れている話「江戸時代の武家諸法度はなぜ作られたのでしょう」はこちらです。

武士とかみ合わない朝廷の政治について触れている話「鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇はどんな政治をしたのでしょう」はこちらです。

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