江戸時代の武家諸法度はなぜ作られたのでしょう

江戸時代の武家諸法度はなぜ作られたのか

 

武家諸法度(ぶけしょはっと)は江戸幕府が開かれた慶長8年、西暦1603年から12年後の元和元年、西暦1615年に制定された規則です。幕府が諸大名を対象としてこの規則を作りました。家康さんが将軍となった1603年ではなく1615年に大名が守らなければならない規則を示したのには大坂に存在していた強い勢力、豊臣家を1615年に徳川方が大坂夏の陣で滅ぼしたからだというような見方もあるようです。豊臣家も滅ぼし、軍事力の面で他の大名に比べて相当優位な立場であったと考えられる徳川家ですが、その状態で武家諸法度をわざわざ作ったのはなぜなのでしょう。その理由としては江戸幕府のトップ、将軍と諸大名の間が、主君と家臣の関係、主従の関係であるということをはっきりさせたかったからといったものや、諸大名の行動に枠をはめて将来幕府に対して反抗することが出来なくなるような体制を作りたかったから、幕府が全国を統治する体制を長期間維持したいからといったものが多く指摘されているようです。

 

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主(あるじ)として命令

 

武家諸法度は将軍の代替わりに内容を多少変更されることが多かったようです。しかし諸大名が守らなければならない規則が列挙されているという点で変わりは無く、将軍がそれぞれの大名に命令するという形式になっています。対等の大名間の誓約、約束事を結ぶようなものではありませんでした。主である将軍の命令に臣従する立場である諸大名が従うというものです。豊臣家が全国を統一した後に徳川家が武家勢力内の秩序を変更させたという経緯もありますので、徳川家康さんが江戸に幕府を新たに開いたものの改めて江戸幕府将軍と全国の諸大名との関係をきっちり定めておきたかった。そのような見方があるようです。別に武家諸法度内に将軍は諸大名の主君であるといった内容の文章は盛り込まれていませんが、武家諸法度にあるような決まりごとを一方的に命令することで命令する立場と命令を受ける立場であることを示しているとも言えます。

 

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江戸幕府が全国を治めるという体制を維持するため

 

戦乱の時代に一応の区切りをつけることとなった大阪夏の陣ですが、豊臣秀吉さんが亡くなられてから徳川家が台頭し武家勢力のトップの座を豊臣家から奪い取る下剋上的なことになったわけです。徳川家康さんや息子の徳川秀忠さんが亡くなった後同じようなことが起きない保証はありません。徳川家が将軍として幕府のトップであり続ける体制を維持するためには全国の諸大名が江戸幕府に刃向うことが出来ないような、刃向いにくくなるような仕組みを作る必要があります。それを実現するための工夫が武家諸法度にいろいろと盛り込まれました。戦をするのに重要な施設である「城」について設備を充実させることが困難な規則が入っていますし、諸大名間の連携を取りやすくする効果がある大名家の間での政略結婚を厳しく制約する規則が入っていることも有名です。また武家諸法度とは別に一国一城令という規則を幕府は同じ年に諸大名に対して命令していますが、これも幕府に反抗する諸大名の力を奪うための試みだと言えます。これは諸大名の領地内にある、大名が居住している城以外はすべて取り壊すようにという命令です。自国の領地を守るうえで戦略上とても重要な施設を一つだけにさせられるわけですから、そのような状況で仮に幕府と戦となった場合は大変不利になります。戦っても相当不利だという状況に諸大名を追いこみ幕府に抵抗する考えを持たせないようにすることで江戸幕府が長く全国を治められるようこの規則(武家諸法度)を設けたという指摘は大変多いようです。

 

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今回は武家諸法度について一部取りあげました。江戸時代初期の話として武家諸法度が制定されたことはとても有名な話なので関連した記事を作りたかったのと、なぜ武家諸法度が作られたのかと疑問を持たれている方も結構いるようだったのでこのようなテーマの記事にしてみました。武家諸法度が出される以前に一部の大名たちに江戸幕府将軍が3カ条の約束を誓わせたという話はあるようなのですが、大坂に豊臣家という巨大な勢力が存在する時期に武家諸法度を定めるようなことは徳川家もなかなかやりづらかったんでしょうね。豊臣家が徳川の出す武家諸法度を無視するようなことになれば、諸大名の手前で示しがつかないでしょうから。徳川に対抗できる勢力がいなくなってからこのような規則を諸大名に命令したというのはわかるような気もします。武家諸法度にある大名間の婚姻を規制した項目ですが、家康さんが味方を増やすためにしきりにやっていたことでもあります。家康さんの関係者と黒田官兵衛さんの息子さんが結婚していますし、秀吉さんに臣従していた有力な大名に福島正則さんがいますけれど、彼の養子と家康さんの養女が結婚しています。また同じく秀吉さんに臣従していた加藤清正さんという有名な武将の娘さんと家康さんのお子さんのお一人が結婚されています。豊臣側の有力な大名の三人だけでもこのような徳川家との関係がありました。自分がやっていたことを諸大名には自由にさせないということで虫がいいなという感じもしますが、今の世の中を考えても核保有国が他の国に核兵器を持たせないよう規制しているようなこともありますし、昔も今も強い立場の者がやることは似たりよったりということなのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

一部の大名が受けた罰則について触れている話「大名の改易で多かった理由には何があったのでしょう」はこちらです。

大名に課せられていた義務について触れている話「江戸時代、幕府は参勤交代をなぜ大名にさせたのでしょう」はこちらです。

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