古代の日本が遣隋使を派遣した目的は何だったのでしょう

遣隋使を派遣した目的

歴史で時代を区分する時、飛鳥時代(あすかじだい)という期間がありますが、この時代は西暦593年から和銅(わどう)三年、西暦710年の期間を指すもののようです。この記事では飛鳥時代が始まった頃の有名な出来事の一つ、遣隋使(けんずいし)についてその目的を中心に触れてみたいと思います。遣隋使というのは中国大陸の広大な地域を領土としていた国、隋(ずい)に日本の政権、朝廷が派遣した使節のことを言います。最初にこの使節が日本から派遣されたのは西暦600年だったそうです。飛鳥時代が始まって7年後ですね。隋という国が誕生したのは西暦581年で中国大陸の南側に存在していた王朝を倒して中国大陸の大半を統一したのは西暦589年でした。建国してから20年後くらいの時期に日本が使節を派遣し始めたことになります。日本側が隋に使節を派遣した目的ですが、中国大陸の文化、知識を日本に取り入れたかったからといったものや日本が望む立場で隋と交流したかったからといった見方が多いようです。

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文化や知識

遣隋使が派遣されていたころ、隋は建国してから大して時間が経過している国ではありませんでしたが、アジア地域の中では進歩した国だったと見られていたようです。日本に比べて仏教に関する知識も豊富にあったようで遣隋使として仏教のお坊さんも参加されていました。また儒教についても日本側は知識を取り入れようとしていたようです。また中国大陸に過去存在していた国々の制度などを学ぶという上でも使節の派遣というのは良い機会だったようです。有名な十七条の憲法という飛鳥時代に作られた有名な規則、基準となる模範がありますが、これも中国大陸に過去存在していた国々の仕組みを理由に作成されたという見方もあるようです。このように中国大陸に存在する宗教や学問に関する豊富な知識や国の法律、制度、など日本側が取り入れたいと考えるものが当時の隋、中国大陸には存在していました。

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日本が望むありかたで大国隋との外交関係を持ちたかったから

中国大陸に存在する大きな領土を保有する国と一定の関係を持っておくことは日本の政権を運営している人々にとって重要でしょう(私の勝手な憶測です)。隋よりも日本に近い位置にある朝鮮半島の国々、高句麗や百済、新羅の中で百済と新羅の二カ国は隋に従属国として朝貢する関係だったそうですが、そういった国々の手前、日本がそれら朝貢している国々よりも上の立場で、隋に対して対等の立場で交流することを望んだという指摘があるようです。そのような目論見もあったのか、大変有名な話ですが小野妹子さんが隋の皇帝に提出した日本側の親書に「日本の天子(天皇)が隋の天子(皇帝)に親書を送ります。お変わりありませんか(私なりの言葉で訳しております)」といった感じの対等の立場での表現が記されることとなりました。隋の皇帝に対しへりくだった感じの内容で親書を作成しませんでした。日本を対等の立場で扱う考えは隋側に無かったようで日本の親書を渡され、内容を見た隋の皇帝はとても腹を立てたようですが、かといって日本との外交関係を拒絶するようなことはありませんでした。隋側の使節(裴世清 「はいせいせい」さんという方が有名です)を日本に派遣するようなこともしています。日本との関係を拒否するならそんなことはしないですよね。このこと(日本との関係を拒絶しなかったこと)については朝鮮半島北部の国、高句麗と隋の対立が影響していたという見方が有名なようです。高句麗と対立している中、日本との関係も悪くしてしまうのは隋の立場からすると都合が悪かったというわけです。

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今回は遣隋使の派遣の目的について一部取りあげました。社会や歴史の授業でも取りあげられる項目ですが、対等な関係で隋と付き合おうとしたという逸話については何となく憶えがあったものの、そもそもの使節派遣の理由が何だったのかについてはよくわからなかったので確認してみたくこのようなテーマの記事を作ってみました。結果としては遣唐使を派遣した理由と同様、中国大陸の文化、知識を取り入れたかったというのが重要な目的だったようです。こういった他の国々の制度などが日本の政権関係者や身分の高い人達に伝わったことで、日本の政治体制も他の国々の動きに応じて変えていかなければならないという考えを持った人たちが出てくることになるわけですし、遣唐使が始まってからの話ではありますが天皇を中心とした国にするための大化の改新も推進されることとなりました。しかし日本の政権側は隋から交流を拒否されるかもしれないということは想定していたのかどうかという点が気になりました。中国大陸の文物を日本に取り入れることが最も重要な使命であれば隋の心証を悪くしないで日本側としては不本意でしょうけれど朝貢国として、あからさまに言えば属国として関係を始めたほうが交流もしやすかったのでしょう。敢えてそれをしないで東アジアの情勢を利用して対等な関係を構築しようとするあたり日本の政権側は思い切ったことをするなぁという気がしませんでしょうか。日本側はいざとなったら別に隋と交流しなくてもいいや、くらいの覚悟をしていたんでしょうかね。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

古代日本の朝鮮半島の国との関わりについて触れている話題「日本は半島を統一した新羅とどんな外交をしたのでしょう」はこちらです。

後の時代の他国への使節派遣中止について触れている話題「日本の遣唐使制度が廃止されたのはなぜだったのでしょう」はこちらです。

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