日本は半島を統一した新羅とどんな外交をしたのでしょう

日本と半島を統一した新羅の外交

この記事では日本が朝鮮半島を一つにまとめた新羅(しらぎ)という国とどんな外交をしたか、どんなふうに付き合ったのか書いてみたいと思います。朝鮮半島でいくつかの国に分かれていた時期も含めると(私が)わかりにくくなるので新羅が半島を統一した頃からということで御勘弁ください。半島が複数の国に分かれていた時には百済(くだら)という国や高句麗(こうくり)といった国があったのですが、新羅はそれらの国との戦いに勝利し西暦670年頃には半島を自分のものにすることが出来ていたようです。676年に半島統一などと書かれている本もあるようですが、それは唐の勢力を半島から排除した年なのだそうです。日本は7世紀後半に半島で唯一の国になった新羅とどのような外交をしたかですが、使節の往来を長い期間実施してはいたようです。しかしどういった関係で付き合うかでうまくかみ合わず、仲が悪くなるような期間もあり一貫して良好な関係だったということではありませんでした。

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遣新羅使

遣新羅使。「けんしらぎし」と読みます。何か字余りな感じがする名前ですね。遣隋使、遣唐使は有名で私も記憶していますが、遣新羅使は聞いたことがありませんでした。新羅国への使節派遣は新羅が高句麗との戦いに勝利したのと同じ年、西暦668年に始まったそうです。この使節派遣は正式なものだけで西暦780まで続いたというのですから100年以上続いたことになります。この使節派遣は大陸の文化、技術の導入に役立てられることになりました。新羅からも日本に使節が来たりしています。使節の往来があるから良好な関係かというとそういった単調な関係ではなかったようで、新羅側が日本に持ってきた贈り物を日本側が拒否するようなこともあったと言われています。

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従属・対等

日本としては新羅という国が日本に従属する立場でかかわることを望んでいた、そういった見方が多いです。新羅もそのような関係を受け入れて日本と外交する時期もありましたが、日本に対し対等な関係を望むようになる時期もありました。新羅のそのような姿勢の変化に日本側が不満を示すことで関係悪化したこともあるようです。前の項目で触れた日本側が新羅の贈り物を拒否したという件は対等な関係を望む新羅に対し日本側が反発したことを象徴する出来事でした。それまでは貢物という名目で日本側に差し出されていた新羅の品物が貢物という意味合いを敢えて除いた単なる「みやげもの」的な名称で日本側に贈られるような、そういった対応の変化があったようです。日本側はあなどるな!ということで反発したわけです。これを理由に断交するようなことは無かったようですが。他には新羅側が国の名前を日本側の許可を得ずに勝手に変えたという理由で反発するなんていうこともあったようです。

姿勢が変わった理由

普通であれば国というものは出来れば他国に従属した存在ではなく対等もしくは他国よりも優位な存在でありたいと望むものでしょうから、新羅が日本に示す姿勢を変化させる場合があったというのは当たり前というか自然なことなのかもしれません。ただ東アジアの情勢の変化がそういった対日姿勢の変化に繋がったという見方があるようです。新羅が日本に従属的な立場で接していた時期は新羅が唐とあまりいい関係ではなかった、唐の脅威が大きかった時期だったと見られており、東アジアの別の国、渤海(ぼっかい)が唐と対立して唐が新羅との関係を改善させるようになると唐の脅威が薄れたため敢えて日本にへりくだって接する必要は無くなり対等な関係を望むようになったという見方です。新羅としては唐という大国と日本に挟まれる位置にいますから、唐と緊張関係にある場合、日本との関係も悪い状態ですと安全保障上大変都合が悪いことになってしまいます。

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今回は日本と新羅の外交について一部取りあげました。学校に通っていた頃古代の日本が新羅という国とどのように関わっていたのかについて教わった記憶がなかったのですが、成人後購入した日本史の教科書を読んでみたところ、ほんの少し記載があったためもう少し詳しく見てみたくなり今回のようなテーマの記事にしてみました。当時の日本は他国とどうやって関わるのかということについては対等ということよりも自分たちに従属する存在として周辺国と関わりたがる傾向にあったということなのでしょうかね。少なくとも新羅に関して言えばそういうことになるようです。現代的な価値観からすると(単に私の価値観?)、対等な立場で交流したらいいのに。当時の日本は度量が狭いね、などと思わないでもありませんが、当時の唐から冊封(さくほう)を受ける新羅と対等な関係になった場合、日本もいよいよ唐と従属的な関係になってしまうという懸念もあったから新羅との関係のあり方にこだわったというようなそれなりの事情があったのでしょうか。先日の遣唐使の記事でも触れましたが、当時の日本は唐から朝貢国、従属国と見なされていたようですけれど、日本の天皇は唐の皇帝から公文書や印鑑を渡されて日本の統治を許可されるといった冊封(さくほう)を受けるようなことはありませんでした。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

秀吉さんの朝鮮出兵について触れている話「豊臣秀吉さんが朝鮮出兵を実行した目的は何だったのでしょう」はこちらです。

江戸幕府と朝鮮半島の関わりについて触れている話「江戸時代の日本は朝鮮半島とどういった関係だったのでしょう」はこちらです。

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