江戸時代の日本は朝鮮半島とどういった関係だったのでしょう

江戸時代の朝鮮半島との関係

 

日本の政治を仕切っていた江戸幕府はその前の桃山時代、豊臣秀吉さんの勢力が大きな権力を持っていた頃と異なり、朝鮮半島を武力侵攻するようなことはしませんでした。豊臣さんが日本の政治を仕切っていた頃朝鮮半島に侵攻した話は有名です。歴史の授業で侵攻した出来事を文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(えき)などと呼んでいたことを覚えておられる方も多いのかもしれません。徳川氏は豊臣氏の時代のような姿勢で朝鮮半島の国(当時李氏朝鮮が存在していました)に臨むようなことはせず、平和的な国同士の付き合い、平和的な外交関係を江戸時代の間続けています。日本の江戸幕府、朝鮮側の統治者双方の腹の内は何とも分かりませんし、民衆レベルでの理解は違っていたという指摘もあるようですけれど、少なくとも交流する政権同士の間ではどちらかがどちらかの従属下にあるというような形式での付き合いということではない対等な関係だったという見方が多いようです。

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平和的な付き合いの証拠が歴史の授業でよく扱われる李氏朝鮮から幕府に派遣された通信使(つうしんし)という使節の存在です。江戸幕府の将軍の代が変わった後に新しく将軍に就任したことをお祝いする目的で使節が派遣されたそうですから、それなりの友好関係と言えます。ただ江戸幕府が朝鮮側との関係を構築し始めた当初の朝鮮からの使節派遣の目的は文禄、慶長の役で日本に連行した朝鮮人の人たちが帰国するためのお迎えだったようです。その際の使節の名前は通信使ではなく回答兼刷還使(かいとうけんさつかんし)でした。通信使の「通信」は現代のニュース配信をする通信社のイメージを私などは持ってしまいますが、信(よしみ)を通わせる、信頼を深めるといった意味があるそうです。日本への使節の派遣回数は将軍の代替わりごとということでそれほど多くはありません。回答兼刷還使の時を含めても12回だけです。ただ一回の使節派遣の一行をもてなすだけでも相当な費用がかかりました。また経済的な理由や両国が他の外交要因で対応に追われるなどの理由で幕末はおこなわれなかったようです。最後の通信使派遣は西暦1811年(文化8年)でした。江戸幕府が大政奉還した年、1867年の半世紀以上前になります。

 

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江戸幕府側が朝鮮との関係構築をすすめた理由

 

江戸幕府が朝鮮側との交流を望んだのは朝鮮側との交易による利益を得たかったということや朝鮮との貿易の利益を外様大名が手にすることで外様大名が経済的に強くなり軍事的に強大となってしまうことを防ぎたかったことが理由だったのではないかという見方があるようです。西日本は外様大名が多いですし、そう考えるのは自然なのかもしれません。外様大名は関ヶ原の戦い以降に徳川方に従う姿勢をとった大名のことを指す場合が多い、大名を分類する際の呼び名です。他の親藩や譜代大名に比べ、場合によっては江戸幕府を裏切る可能性が高い大名たちだと幕府側が一応の警戒心を持っていた勢力と言えます。実際幕末に幕府と対立した萩藩(長州藩)や薩摩藩、土佐藩、佐賀藩(肥前藩)などは全部外様大名が統治する藩でした。

 

朝鮮側が江戸幕府との関係構築を拒否しなかった理由

 

朝鮮国内で豊臣時代の日本が朝鮮半島に侵攻した時に日本へ連行した朝鮮の人たちを朝鮮半島に帰国させようという要望が強まっていたこと、後ろ盾となっていた中国大陸の大国、明は存在するものの日本からの侵攻(文禄・慶長の役)も終わったので朝鮮半島から明の軍は撤収していますし、北方の異民族、女真族(満州民族)が朝鮮から見て北の地域で勢力を拡大してきており自国にとって脅威となっている中で自国から見て南側に存在する日本と事を構えたくはないという考え、日本との間の貿易で利益を得たいという思いなどがあって日本との交流を再開したという見方があるようです。女真族はその後大国、明を亡ぼし大帝国、清を建国することになります。

 

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今回は江戸時代の日本と朝鮮半島の関係について一部取りあげました。歴史の授業でも多少は触れますし、平和的な付き合いをしていたという記憶は残っているのですが、それ以上のことはあまり知らなかった(覚えていなかった)ので、江戸時代の話を最近は扱っていますし確認してみたくこのようなテーマの記事を作ってみようと思いました。西国大名に朝鮮貿易の利益を独占させない為とか女真族の脅威を前にして日本と対立する関係にあるのは都合が悪いといった事情が日朝間の関係再構築の理由として挙げられていることは初めて知りました。そのような見方が的を得ていたのなら自分の体制を守るため、体制を守る上での不安要素を減らすためという意識が働いて交流が再開されたことになります。本当の意図はよくわかりませんが、当時の統治する側にそういった視点があったとしても不思議ではないという感じはします。どの国も生き残っていかねばなりませんので。どういう意図があったにせよ、二国間で戦争の無い状態、支配し支配される関係ではない間柄が江戸時代の約260年という長い期間続いたというのは貴重な事ではあります。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

明治時代に入ってからの関係について触れている話「征韓論とは?征韓論が強まった背景や反対側の理由について」はこちらです。

国交を断られた後の日朝間の出来事に触れている話「江華島事件とは?発生した年号やなぜ発生したのかについて」はこちらです。

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