対馬や壱岐の島々はモンゴルの攻勢でどうなったのでしょう
モンゴル勢による対馬、壱岐侵攻
ユーラシア大陸の広い範囲を領土とし、更に覇権を拡大しようとしてモンゴル民族の国、元(げん)は朝鮮半島の国、高麗(こうらい)国を戦闘の末に属国とした後、隣国の我が国、日本にも手を伸ばそうとしました。当時日本の政治を仕切っていた鎌倉幕府は文永五年、西暦1268年に元の使者が日本に届けた書状を初めて受け取りますが日本が元に服属することを求める内容の書状であったため、元の歓心を買うような返事をすることも出来ず無視する態度をとります。その後たびたび使者を日本へ送っても返事が無いことで服属意志が無いと判断した元の指導者は日本を侵略することを決断、文永十一年、西暦1274年に大軍を日本に派兵し襲い掛かってきました。これが一度目の元寇(げんこう)です。最初の攻撃を受けてもなお元に従属しようとしない日本を屈服させようと弘安四年、西暦1281年に、初回よりもさらに多くの軍勢で元は攻め寄せてきました。日本側の抵抗と天候の影響によって元は思うように日本を攻略することができず、撤退することとなります。弘安四年の侵攻が最後の元寇となりました。元の指導者はそれに懲りず3度目の侵攻を企画していたそうですが実現されずに済んでいます。別の地域で発生していた抵抗活動を鎮圧することに忙しくなり日本を攻撃する余裕が無くなったそうです。日本の領土を奪われることなく元の撃退に成功したのでその点は良かったのですが、九州に攻め入ってくる前に大変な被害を日本は受けていました。九州の北に位置する対馬(つしま)と壱岐(いき)にモンゴルの軍勢が押し寄せていたのです。対馬、壱岐の島々では戦闘員だけではなく非戦闘員である一般の人々も元の兵員によって大勢命を奪われてしまいました。
スポンサーリンク
武士の抵抗
当時の対馬には島の治安維持を任されていた守護代(しゅごだい)という立場の方がいました。宗資国(そうすけくに)というかたが担当されていたそうです。最初の元寇、文永の役の時に元は3万人規模の軍勢で攻めてきましたが、対馬に攻めてきたのは1000人ほどの規模だったそうです。島にいた日本の武士は80人ほどで、敵に比べ圧倒的に規模が小さいため抗戦したものの討ち死にしてしまう結果となってしまいました。元軍は壱岐にも攻め寄せます。攻勢に対し壱岐の守護代、平景隆(たいらのかげたか)という方が率いる100人ほどの武士団が迎え撃ちましたが、対馬と同様兵員規模が敵に比べ小さく、壱岐でも戦闘員は命を落とす結果となってしまいます。対馬の指揮官も壱岐の指揮官も九州の大宰府(だざいふ)に元の侵攻を伝達、日本側は警戒を強めました。
スポンサーリンク
島の一般の方々
戦闘員ではない島の一般の方々も元の軍勢に襲われました。山中に逃げ込むものの見つかってしまった場合は殺害されるか奴隷として捕えられてしまったそうです。家畜は食料として奪われてしまいました。どれだけの方々が被害にあってしまったのか明確な記録が残っているわけではないそうですが、元の襲来後、生き延びた島の方々の数は壱岐の場合100人にも満たなかったなどという指摘もあるようです。当時の壱岐の人口が不明ですが、明治時代、壱岐には30000人(当時の日本の人口は4000万人くらい)規模の方々が暮らしていたようです。鎌倉時代はそれよりもはるかに昔ですが当時、鎌倉時代の日本の人口は500万人~600万人くらいだったという見方があるようで明治時代の日本全国の人口と壱岐の人口の比率を単純に当てはめますと鎌倉時代には3700人~4500人くらいの人が壱岐で生活していたといった推測が出来ます。実際にもしその程度の規模の人々が島で暮らしていたとして元寇の後、100人も生き残ることが出来なかったのだとしたら島の95%以上の方々が亡くなられたことになります(これは単なる推測ですが)。奴隷とされた人々は船に連れて行かれ日本側が元の側の船に対し矢を放つことを躊躇するように元側の船の壁に並べられるなどしてひどい扱いを受けていたり、高麗の王室に200人、奴隷として献上されたといった記録も残っているそうです。このように島の方々は元寇によって大変むごい目に遭いました。
スポンサーリンク
今回は元寇のときに対馬、壱岐でどのような事が起きたのか一部取りあげました。元寇については「何とか日本側が撃退できた」ということが話の中心になっている気がしますし、九州に攻め込まれる以前に、対馬や壱岐でどのような事が発生したかについては社会や歴史の授業で詳細に説明されたという記憶はありません。どのような状態であったかについて確認してみたく、今回はこのようなテーマの記事にしてみました。余程使用している武器が相手に比べて進歩しているような状況でもない限り、桁違いに多い敵を撃退するのは普通に考えれば難しいですよね。大変不利な中、モンゴル軍を迎え撃った島の武士の方々の心中というのはどういったものだったのでしょう。城で自害される方々もおられたそうです。侵攻してくる敵が紳士的な価値観を持っている保証などありませんし、侵略されてしまうと最悪の場合、このような地獄が待っているということを覚悟しなければならないものなのかもしれません。近代でも日本人が被害にあった事例として尼港事件(にこうじけん)や通州事件(つうしゅうじけん)のような悲惨な出来事が起きています。軍備、軍事力を議論する場合、人々の命を多数失ってしまうこういった過去の出来事もきちんと考慮に入れなければ現実とかけ離れた結論を導いてしまう危険性があるように思いました。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
防衛力が乏しい場合に起きる出来事について触れている話「尼港事件(にこうじけん)とは?この事件への報復についても」はこちらです。
防衛力が乏しい場合に起きる出来事について触れている他の話「保安隊が起こした通州事件とは?日本軍の対応についても」はこちらです。
最近のコメント