元寇に直面して鎌倉幕府はどのような対応をしたのでしょう

鎌倉幕府による元寇への対応

 

日本が鎌倉時代だったころ、中国大陸のかなりの範囲を支配下に置いていたモンゴル民族の国、元(げん)。朝鮮半島の高麗国を戦闘の末に属国とし、朝鮮半島から近い我が国日本も元は支配下に置こうとしました。元の日本に対する服属要求の書状が最初に鎌倉幕府に届いたのは文永五年、西暦1268年でした。元の軍勢による日本侵攻、いわゆる元寇(げんこう)はその後文永十一年、西暦1274年の文永の役と弘安四年、西暦1281年の弘安の役の合計2回実施されています。最初の日本に対する服属要求から文永の役は6年後、弘安の役は13年後です。服属要求から実際の元寇まで、こうしてみるとそれなりに期間が経過していることがわかります。このような期間内に鎌倉幕府としては元の侵攻についてどのように対応しようとしたのでしょう。特定地域の武士に対しモンゴル軍の来襲を迎撃するよう任務を課したそうです。また文永の役が終わってからだったようですが敵の侵攻を防御するための、非常に大規模な壁のようなものを建設しました。また九州地域の幕府勢力を管理するための機関を設置するようなこともしたそうです。

 

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侵攻を迎え撃つ担当を決めました

 

元の軍勢による侵攻を食い止めるために特定地域の武士に対し、攻め込まれそうな地域の警備をおこなうよう幕府は指示しています。このような動きは文永八年、西暦1271年から始まりました。実際に元が攻めてくる3年前の時期になります。異国警固番役(いこくけいごばんやく)などといわれるお務めだそうで、九州で生活している幕府に所属する武士、御家人(ごけにん)の方々や九州に自分の土地がある御家人の方々に対して博多地域など九州北部で攻め込まれそうな場所の警備を担当させました。また中国地方も攻め込まれる危険性があると警戒していたそうで長門(ながと)、現在の山口県の北西部にあたる地域も警備の対象としていました。そのお務めは長門国要害警固番と呼ばれていたそうです。こちらのお務めは山陽地方や四国、紀伊半島の御家人の方々が課せられることとなりました。こういった九州北部、長門の警備をしている御家人は京都や鎌倉といった重要地域の警備をするお務めを免除されることとなりました。幕府に所属しない武士の人々もこのようなお役目を担当するよう要請されたそうです。

 

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防御用の構造物を構築

 

最初の元寇、文永の役が終わった後の話になりますが、元の軍勢に攻撃された経験を踏まえて幕府は侵攻されにくくするために壁のようなものを大規模に構築することにしました。その構造物は防塁(ぼうるい)、石塁(せきるい)、石築地(いしついじ)などと言われています。2mくらいの高さがあり、奥行きも2mくらいで海側は石が積み重ねられ垂直に壁のようになって登りにくくなっており、陸側はなだらかな坂になっています。敵が内陸に侵入してくるのを防ぐためにこのような構造物を博多の沿岸地域一帯に築いていきました。この構造物を築く役目を幕府は九州の御家人の方々に命じたのだそうです。石塁を造るよう命じたのは建治(けんじ)二年、西暦1276年、文永の役の2年後のことでした。二度目の元軍の侵攻、弘安の役の時にはこの壁が役に立ったそうで、日本側は石塁で元の軍勢の侵攻を食い止め、内陸への侵入を断念した元の軍勢は沖合に停泊させた船団に撤収していきました。

 

幕府機関の設置

 

九州地方で警備についている武士の方々が何かトラブルに巻き込まれ訴訟をしなければならないような場合、京や鎌倉まで出向いて幕府の関係機関に訴えを起こすものだったようですが、これでは九州での警備の仕事がないがしろにされてしまいます。訴え事がある場合は九州で処理できたほうが都合もいいため、鎮西探題(ちんぜいたんだい)と呼ばれる幕府の機関を設置し武士の方々が九州を離れないで済むような体制を整えました。

 

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今回は元が攻めてくることが想定される中、幕府がどのような対応をしたのかについて取り上げました。元の軍勢に突入する武士の方々の絵を教科書で見た記憶はありますが、幕府が具体的にどのような体制で攻撃に備えたのかについてはよく覚えていなかったため確認のためにこのようなテーマで記事を作ってみた次第です。異国警固番役で博多を警備していたのは九州地域の武士の方々が中心だったようですので実際に元を迎え撃っていた多くの方々は九州出身の人々だったということになります。他国のよくわからない軍勢と戦ったり、石塁を築いたりと負担が大きかったことは容易に想像できます。本当に大変です。元を追い払うという仕事を果たしたのに、そのことについて幕府からほうびがもらえないということであれば、確かに当事者として納得のいかない話として受け止められるのも当然のような気がします。元からの最初の書状が幕府に届いてから文永の役まで6年経過していたわけですが、このような期間を設けることが出来たのは幕府が明確な返事を元にすみやかに出さず、無視を決め込んだからといった見方もあるようです。幕府が元に対し服属などしない!という明確な意思を持っていたのならどうしてそういう返書を速やかに出さずに無視していたのか不思議な気もしましたが、侵攻までの時間を稼ぐためだということならそれはそれで合理的な対応だったと言えるのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

鎌倉幕府の滅亡について触れている話「鎌倉幕府が滅亡した時期はいつ頃だったのでしょう」はこちらです。

別の時代の防衛制度について触れている話「明治政府が出した徴兵令とは?年齢や免除事例についても」はこちらです。

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