南京攻略戦とは?攻撃した理由や国民政府の対応についても

南京攻略戦とは

 

南京攻略戦(なんきんこうりゃくせん)とは西暦1937年(昭和12年)の12月に中国大陸の大都市、当時は中華民国国民政府の首都であった南京を舞台にして日本軍と中華民国の軍隊の間でおこなわれた戦闘のことです。上海は中国の大きな川、揚子江の河口にある沿岸の大きな都市ですが、南京は上海から揚子江を上流方向へ移動した位置にあります。日本軍が最終的にこの戦闘に勝利し国民政府の首都南京を制圧します。日本軍によって南京が制圧されたのは12月13日でした。攻略戦が始まったのは12月上旬からですからだいたい2週間で決着がついたことになります(第二次上海事変は上海から中華民国の軍が退却するまで2か月以上かかったようです)。この時は上海での戦闘と異なり兵力の数では日本軍の方が多かったようです(日本軍約20万人、中華民国軍15万人以下)。この戦闘で日本軍の約1500名の方が戦死されました。中華民国軍側の戦死者数は定かではないようですが10000名以上戦死しているという指摘があるようです。

 

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南京を攻撃した理由

 

日本の陸軍内部では上海での戦いに決着がついたことで戦闘する地域を拡大させないようにしようという意見と上海に続いて南京も攻撃しようという意見の二つに分かれていたようです。戦闘がおこなわれていた中国大陸現地に派遣されている日本軍からは南京も攻略して制圧するべきだという意見が軍中央に対し提案されました。最終的には軍中央も南京攻略を認めることとなります。中華民国国民政府側に停戦のための協議に応じさせるためには国民政府の首都である南京を日本軍側が占領するのが有効であろうと判断したことが派遣軍に南京攻略を許可した理由のようです。上海から中華民国の軍隊が退却した後も和平のための動きが日本側からおこなわれていたようですが、中華民国側はこの時点でもはっきりとした和平協議に応じる意思表示をしていませんでした。そのような状況のため国の首都を制圧するようなはっきりとした成果をさらに挙げる必要があると日本側は考えたようです。

 

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南京攻略戦に関する国民政府の対応

 

中華民国国民政府内では首都、南京の扱いについてどうするか意見が分かれたようです。一部の軍隊だけ残し、残った軍による抵抗にとどめて他の軍は南京を退き戦力を温存させるという意見や、そもそも軍隊を南京から全部撤退させ国民政府が南京を放棄したほうがいいという意見があり結局は軍隊の一部が南京に残り攻撃する日本軍と戦うことを選択します。国民政府の蒋介石を含めた指導者たちは南京で戦闘がおこなわれる前に南京を脱出しました。唐生智(とうせいち)という人物が南京に残る中華民国側の軍隊の責任者となります。国民政府は南京での戦闘が始まる前に国の首都を南京から武漢(ぶかん)に変更することとしました(最終的には武漢から重慶 じゅうけいに再度首都を変更することになります)。武漢は中国大陸の内陸にある都市で南京から揚子江をさらに上流にさかのぼった位置にあります。現在は湖北省という内陸の省の中心地になっています。

 

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今回は南京攻略戦に関し一部取りあげてみました。南京大虐殺という歴史的な用語はとても有名ですが日本軍による南京の攻撃に関する用語はあまり有名では無いようでいくつか表現がありましたが今回は南京攻略戦という表現を使用しました。上海での戦闘に比べ短期間で決着はつきましたが、本来の首都での戦闘になりますし、一部では問題となった事件が発生したと指摘されている場所でもあるので、南京での動向は重要なのだろうなと思い、南京占領に関してまず調べてみることにしました。日本側の南京攻略の理由は中華民国国民政府を和平に応じさせるためでしたが、残念ながら南京が占領された後も蒋介石は協議に応じていません。日本側の目論見は外れたわけです。上海、南京と主要都市を抑えたものの国民政府は戦闘をやめようとせずどんどん内陸に逃げていくわけですから切りがないですよね。日本にとって更に戦線を拡大しないで(内陸に進軍しないで)南京でとどめておくという方針はとれない状況だったんでしょうか。こうなってしまっては武漢に攻め入っても国民政府は和平に応じるかどうかわかったものではありません。内陸に入っていけば日本軍の犠牲もどんどん増えることになるでしょうし。日本は早急に和平に持ち込みたかったようですけれど、思うようにならなかった場合本当にやっかいですね。しかも上海事変は日本側が仕掛けたのではなく中華民国側が仕掛けてきたのですから。相手がこのような姿勢ですから当時中華民国の領土内で日本国民が居留民として生活を送ったり日本国の権益を維持、確保するようなことはもう無理だったんじゃないでしょうかね。経済的なしがらみもあって中華民国から容易に出ていけない日本国民もいたでしょうけれど、日本国民を全員中華民国から退去させて中華民国内での活動を一切あきらめるのが一番だったのかな、などと個人的には思ってしまいます。当時の中華民国内にいたら日本の民間人も日本兵もどんな嫌がらせをされるかわかったものではありませんから。でも日本国内の世論はそんな意見を許すような雰囲気ではなかったのでしょうね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

南京攻略戦の前の戦闘に関して触れている話「第二次上海事変とは?大山中尉やドイツの関わりについても」はこちらです。

南京攻略戦と関わってくる話「1937年の南京事件とは?日本政府と異なる見解についても」はこちらです。

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