日清戦争後の第2次伊藤内閣の動きと第2次松方内閣について

日清戦争中の議会は

 

戦争中の西暦1894年9月に第4回衆議院議員総選挙が行われ、10月に第7回目の議会(臨時の短期間だけ行われた議会です)が開かれました。この議会で予算案などが審議されましたが、これまでの衆議院の反応と異なり、政府の出した予算案に対し反対した勢力はありませんでした。第8回目の議会(通常の議会です)は1894年の12月に開かれました。政府が出した1895年度(明治28年度)の予算案が審議された時も議会からは予算規模の削減要求を目的とした反対意見は強まらず、政府案のまま賛成されたそうです。戦争中議会は政府を攻撃することなく経過し、日清戦争は日本の勝利で終了しました。

 

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日清戦争後の伊藤内閣の動き

 

しかし戦争が終了した後、議会の多数を占める政党勢力は戦争中のような政府へ協力する姿勢を示さなくなり、政府の対応は困難となりました。

伊藤総理は議会で最も多い議席を持っていた政党、自由党と協力関係を結ぶことを選択しました。1895年の12月に開かれた第9回目の議会(通常の議会です)で政府の出した予算案、法案は自由党の協力によって若干の内容変更で議会を通過しました。この時政府から出された予算案は軍備の拡張を行う内容で例年の予算額に比べより多い額となっていました。これまでの議会であれば政費節減(予算削減)を求め、強い反対意見が出るところですが、大政党の協力によって成立します。

伊藤総理は自由党との連携のため、1896年の4月に自由党のトップ、総裁である板垣退助さんを内務大臣にしました。しかしこの後内閣から辞めていく人がポロポロ出てきます。5月に外務大臣の陸奥宗光さんが辞任し、8月には大蔵大臣も辞任しました。次の大蔵大臣に松方正義さんを考えていた伊藤総理ですが、松方さんは引き受けなかったようで、有力者からの協力が得られないことで政権を維持することが困難と判断します。8月いっぱいで伊藤総理は辞職しました。

 

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第2次松方内閣

 

第2次伊藤内閣が退陣した後に総理大臣となったのは松方正義さんでした。伊藤内閣は自由党と連携し政権を運営しましたが、松方さんは当時議会内で一大勢力となっていた進歩党という政党との連携をすることとなりました。進歩党は立憲改進党や立憲革新党といった諸政党が合同して誕生した政党です。進歩党のトップは大隈重信さんだったので大隈さんがこの内閣に入閣することとなりました。外務大臣となっています。

この内閣の時に言論を規制するための法令で有名な新聞紙条例の内容が変更されました。規制が緩和されたのだそうです。政府が協力関係にあった政党の要求に配慮した結果のようです。

しかしこの内閣に協力する進歩党と薩摩閥の対立が次第に強まり、松方総理が国民に対する税負担を増やそうとしたことで進歩党は松方内閣と距離を取るようになってしまいました。1897年10月の話です。政権と対立する姿勢に転換した結果、その後大隈重信さんは外務大臣を辞任してしまいました。

同年の12月には内閣不信任案が衆議院で提出されます。衆議院を内閣不信任案が通過する可能性が高いと判断した松方総理は、不信任案が通過する前に衆議院を解散しました。またそれと同時に松方総理は辞表を提出し松方内閣は退陣することとなります。

 

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今回は日清戦争後の伊藤内閣と第2次松方内閣を中心に取りあげてみました。本音では政党と関係なく政治を行いたい政権側と本来政権と対立することの多かった政党側が戦中と戦後でどのように姿勢を変えていくのか調べておきたいと思い記事にしてみました。

大きな政党の協力が無ければ予算案も法案も議会を通過させることが困難なのですね。政党の力はそれだけ強かったということになります。伊藤内閣は自由党、松方内閣は進歩党というように大きな政党との連携で政権運営を安定させようとしました。

日清戦争中はそのようなあからさまな連携をしなくても政党は政府に協力をしてくれましたが、戦後は政党も態度を変えることになります。政党としては、やはり戦争中は政府に自分たちの要求を受け入れさせるということよりも戦争に勝ってもらわなければ困るということだったのでしょうか。負けてしまっては大変ですし、そのような協力姿勢を取るのは無理もないことなのかもしれません。

ただ一時は連携したものの進歩党は増税の話が出てから反政府の立場となりました。立憲改進党は国民の負担を軽くすることを公約にしてそれまでの選挙を戦ってきたわけです。その政党が中心となって誕生した進歩党も国民の税負担に敏感に反応する議員がたくさんいそうですよね。税負担というのは一つの内閣を倒すくらい強力な政治課題なんだということを第2次松方内閣の動きを見ていて強く感じました。税を増やされたら、たくさんの人が困りますもんね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載した写真に関係はございません。ご了承ください。

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