台湾民主国とは?その後の乙未戦争(台湾平定)についても

台湾民主国とは

 

台湾民主国(たいわんみんしゅこく)とは西暦1895年の5月に清国に関係した台湾の役人や一部の住民が主導して台湾で建国を宣言した共和国の名称です。

1895年に日本と清の間で締結された講和条約、いわゆる下関条約によって台湾や台湾のすぐ近くにある澎湖諸島は日本国が領有することとなりました。遼東半島についてはロシア帝国等による三国干渉で清国に返還されましたが、台湾については欧米列強による干渉はされず、法的に日本のものとなりました。

清国内部や台湾現地の人たちは台湾が日本のものになることに反対な人も多く、台湾が日本のものとならないで済む方法が無いものかと考え実行したのが、台湾を清から独立させるという作戦でした。

「台湾が清の主権の及ばない地域ということにしてしまえば、清が台湾を日本のものとすることを認めるという下関条約の内容は独立国台湾民主国に対する清国による主権の侵害となる。そうなれば日本と清国の台湾に関する約束は無効となって台湾が日本の支配下にならないで済むかもしれない。」そう考えたようです。

しかしこの話が進む中で日本と清国の間でまた戦争になることを恐れた清国の要人は日本への台湾の受け渡しを行い、台湾民主国側への表だった支援も行わなかったようです。

清国の高い地位の役人だった人が台湾民主国のトップである総統となりましたがその後日本軍との戦闘が激しくなり中国大陸に逃亡しました。二代目の総統は清国の軍人だった人物が就任していますが、この人物も日本軍との戦いで劣勢となったため中国大陸に逃亡しています。

台湾民主国の勢力は独立宣言を行った1895年5月から同年の11月までの期間、日本軍によって武力鎮圧されることとなり、日本軍に敗れて短い歴史を終えることになります。

 

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乙未戦争について

 

乙未戦争(いつびせんそう)とは台湾平定(たいわんへいてい)とも呼ばれる、日本軍と清国軍の関係者や台湾の住民によって構成された武装組織の間で行われた戦闘のことです。西暦1895年の5月から10月まで戦闘が続きました。

日本への台湾領有権限の移行に反発する台湾民主国の宣言といった動きが台湾内で発生したことを理由に日本政府は軍を台湾に派遣、軍が上陸した後に戦闘は始まりました。

台湾の中心都市、台北については現地住民が治安を維持したいという考えで日本軍が戦闘することなく支配地域とすることが出来たそうです。

その後日本軍は台湾を南へ進軍しますが住民側の抵抗が強く戦闘が長引いてしまい、すぐに台湾全土を制圧するということにはなりませんでした。現地の人たちのゲリラ戦や、日本軍側の犯罪行為に怒り一旦は日本軍を受け入れた地域で抵抗が起きる等、多難続きだったそうです。

この戦闘で日本軍側は7000人余りの人が命を落とし、台湾の武装勢力側も約14000人もの人たちが亡くなりました。

また、日本側が台湾を平定したと宣言した1895年11月以降も台湾地域内で抵抗は散発したそうです。日本側はそのような抵抗に対応しつつ台湾総督府を拠点にして台湾地域での行政をおこなっていくこととなります。

 

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今回は日清戦争後の台湾での動きを取りあげてみました。今まで学校で歴史の授業を受けてきた中では詳しく勉強するところではなかったように思います。しかし台湾が日本のものとなった時台湾でどのような反応だったかについては関心もあったため調べてみようと思いました。台湾民主国という名称は今まで聞いたことがありませんでした。短期間で崩壊はしますが、日本の支配下とならないようにするために国まで作ってしまったわけです。

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清国政府が台湾を日本に渡すこととなっても現地の人たちは清国政府の考えに素直に従うわけではなかったんですね。以前台湾出兵に関して取り上げたことがありましたが、台湾で発生した日本人が被害に遭う事件で清国政府は台湾で起きた事件について責任が持てないと発言したそうですから、元々中央政府の統治が十分に行き届いていない地域だったわけですし無理もないことだったのかもしれません。

台湾在住の中国大陸出身の人たちが日本を嫌がるのは戦った相手ですしわかるような気もしますが、元々現地にいて清国の支配下にあった住民の人たちが日本に対し抵抗した理由は何故なのでしょう。日本に関する悪い評判でもあったんでしょうかね。

歴史の授業ではあっさりと日清戦争で台湾は日本のものとなりましたと勉強しますが、実際に日本統治とするまでは現地の人たちと戦う非常に過酷な過程があったわけです。他国の領土を自分のものとするということは決していいことばかりではなく、かえってたくさんの代償が必要となる場合もあるということを今回の出来事で知りました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載した写真に関係はございません。ご了承ください。

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