軍部大臣現役武官制など第2次山県内閣が実行した内容
第2次山県内閣
日本初の政党内閣、第1次大隈重信内閣が共和演説事件に象徴されるような与党内での内部対立の激化によって退陣に追い込まれます。その次に誕生したのがこの第2次山県内閣でした。内閣総理大臣は山県有朋(やまがたありとも)さんです。この内閣で大臣となったのは大抵が元長州藩出身の人や元薩摩藩出身の人でした。この両藩の出身ではない人で官僚として活躍し大臣となった人もいるようです。薩長閥、官僚といった人材で構成された内閣でした。西暦1898年(明治31年)11月に発足します。
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地租増徴
この内閣は第1次大隈内閣の前の第3次伊藤博文内閣やその前の第2次松方正義内閣と同様に「増税」が必要と考えていました。「地租増徴」は所有する土地の値段に応じて一定割合のお金を税として支払う制度、「地租」の負担割合を増やすという、結局は増税を意味しています。もともと所有する土地の値段の2.5%を納税者は政府に払えばよかったところを地租増徴によって土地の値段の3.3%を支払わなければならなくなりました。
増税の目的は日本経済を支える産業育成の促進と国軍の軍備拡張でした。欧米列強と張り合うことが出来るくらい軍備を整える必要があると増税論者は考えていたようです。
山県総理は当時の衆議院で多くの議席を持っていた旧自由党系である憲政党の実力者、星亨(ほしとおる)さんを介して憲政党と連携し、この増税案に関して憲政党の協力を得て衆議院を通過させることに成功しました。
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文官任用令を改正
文官任用令という法令は政府のお役人を任命する時の資格を定めた決まりです。1893年(明治26年)に定められていました。山県さんはこの元々あった規則の内容を変更します。高官には、高官になるための試験、文官高等試験を合格した人物から採用することなりました。山県首相は文官任用令の改正によって政党所属の議員が政府の高官に就任することを阻もうとしたのだそうです。それまでは文官高等試験に合格していなくても内閣の判断で政党関係者が政府の高官に多数就任することもできたわけですね。政党関係者が行政に深く関与することも出来たということです。それを山県さんたち薩長閥は嫌がっていました。
治安警察法
治安警察法(ちあんけいさつほう)はこの内閣によって作られることとなった法律です。集会や結社、集団行進や集団での示威運動(デモンストレーション)を取り締まる内容が盛り込まれており、政府によって政党活動の規制を念頭にこれまで様々な法令が作られていたそうですが、この法律では労働運動対策が意識されたのだそうです。西暦1900年(明治33年)に制定されました。
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軍部大臣現役武官制
軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)は内閣の一員である陸軍大臣、海軍大臣といった軍関係の大臣に、軍で現役の大将か中将である軍人だけしか就任することが出来ないという制度です。これも1900年(明治33年)に制定されました。この仕組みによって政党関係者が陸軍大臣や海軍大臣に就任することが出来なくなりました。
この制度は退役した元軍人という立場の人も陸軍大臣や海軍大臣に就任することが出来なくなるような仕組みになっています。
元薩摩藩、元長州藩出身の有力者、藩閥勢力は軍と密接な関係がありました。藩閥勢力はこの仕組みを作ることによって政党所属の議員など政党関係者が軍の大臣になれないようにして、政党による軍への介入を阻み、藩閥勢力の軍内部での影響力を保ち続けようとしたのだそうです。
またこの仕組みによって軍がその気になれば陸軍大臣や海軍大臣となる人材を軍から出さないようにして内閣を成立させないようにする、内閣を倒すことが出来るようになりました。運用の仕方によっては軍が政治を主導することとなる制度と言えます。
今回は第2次山県内閣が行った代表的な政策について取りあげてみました。他にも衆議院議員選挙法の改正や北清事変への関与といった重要な話もありますが、北清事変については別の記事で取りあげてみたいと思います。
この内閣は大きな政党と協力して増税を成し遂げた反面、政党関係者に対して「大臣にするよ」という話を約束しておいて実際には政党所属の議員を内閣に入れることはしませんでした。それだけではなく政党関係者が政府高官や陸海軍大臣となる機会を奪う仕組みを作ります。増税を実現するために政党を利用したものの、山県さんは本音では政党を信用していなかったということが上記のような政策に表れているのではないでしょうか。現代の日本では政党政治が当たり前となっているので、山県さんのような価値観の人間からしてみれば今の政治について否定的な感想しか出てこないのかもしれませんね。後で政党(立憲政友会)を作る元老の一人、伊藤博文さんとは明らかに違う立場です。
特権階級という視点で当時の秩序の維持に腐心したという人なのでしょうが、一般の国民からすると税は増えるし集会の自由は規制されるし、つらい時期だったのではないでしょうか。
軍部大臣現役武官制はあとあと影響が出てくる仕組みのようなのでこの記事でも取りあげてみました。もともと藩閥勢力の政治的な影響力を確保するために作った制度なんですね。今までそういう捉え方をしたことはありませんでした。
藩閥こそが日本の進むべき正しい方針を提示できるという自負があったのかもしれませんが、第2次世界大戦の敗戦を考えると藩閥が導いた軍部大臣現役武官制はやはり良い制度ではなかったのでしょうね。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載した写真に関係はございません。ご了承ください。
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