西園寺内閣で発生した二個師団増設問題とは?山県有朋の動きも
二個師団増設問題とは
二個師団増設問題(にこしだんぞうせつもんだい)とは西暦1912年(大正元年)に発生した出来事です。兵員の数を増やしたいという考えを強く持っていた陸軍は第2次西園寺内閣の西園寺公望(きんもち)内閣総理大臣にその考えを伝え、その為の予算を確保することを求めました。
師団(しだん)というのは兵員数のまとまりを表す単位のように考えると良いかと思います。時代や国によっても数は様々ですが一つの師団に6000人~20000人の兵員が所属するようなものなのだそうです。相当な兵員数を意味していますね。
しかし国が一年に使うお金の額をそんなに増やさないで政治を行おうという考え(緊縮財政方針「きんしゅくざいせいほうしん」と言うそうです)だった西園寺首相や他の大臣、与党であった立憲政友会(りっけんせいゆうかい)はそんなに陸軍に予算をまわすことは出来ない、陸軍にそんなにたくさんお金を出せないよ、という理由で陸軍の要求を断りました。
内閣総理大臣がそのような考えを陸軍側に伝えたものの、陸軍側は「わかりました。今の兵員数で国防の任務にあたるよう努めます。」と言って納得したわけではありませんでした。当時の陸軍大臣、上原勇作(うえはらゆうさく)という人が当時の天皇である大正天皇(たいしょうてんのう)に陸軍大臣を辞めます、と意思表示しました。辞表を出したのです。大正天皇は辞表を受け入れ、上原陸軍大臣は辞めてしまいました。
陸軍大臣がいない内閣など成立しませんので陸軍大臣を代わりにやってくれる人を西園寺内閣は探すのですが、やってくれる人が全然見つかりません。
当時の日本には軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)という決まりがありました。陸軍大臣や海軍大臣といった軍の大臣は現役の中将や大将という限られた立場の人しか担当出来ませんよという決まりです。そういった決まりがあったので軍の中将や大将に「陸軍大臣やってください」と西園寺内閣側がお願いするのですが、お願いする人みんなに断られ陸軍大臣が空席のままとなってしまいました。
陸軍大臣が空席のままでは政権が成立しないため、このまま西園寺首相が政治のかじ取りをし続けることが出来なくなり、結局西園寺内閣の大臣は西園寺内閣総理大臣を含めみんな辞職し西園寺内閣は退陣する結果となりました。この一連の出来事が二個師団増設問題と言われています。
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陸軍が二個師団増設を求めた理由
陸軍が大変強く求めた二個師団増設ですが、なぜそんなに兵員数を増やしたがったのでしょうか。
一つにはロシア帝国がシベリア鉄道の性能を向上させたことでロシア側が大勢の兵員を東アジアにすみやかに動員できるようになったという事情があるそうです。日露戦争を戦った相手が東アジアで以前よりも強力な軍事力を行使できる状態になったので日本もそれに対応しなければならないというわけです。
二つ目の理由としては中国大陸では辛亥革命(しんがいかくめい)が発生し清国が滅亡しました。中国大陸の情勢が不安定なため不測の事態が起きて南満州に存在する日本の権益や中国大陸に滞在している日本人を保護することを念頭に置くと兵員を増やす必要があるというわけです。
他にも1910年に韓国が日本となり(韓国併合かんこくへいごう)朝鮮半島にいつも相応の数の兵員を駐留させておく必要が出てきたので今の陸軍の兵員数では足りないという事情もあったのだそうです。
以上のような理由から師団を二つ増やさなければならないと陸軍は考えた、という指摘があるようです。
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山県有朋さんの動き
陸軍が西園寺内閣に二個師団増設を求めて断られた後、政治的発言力が強い元老(げんろう)という立場の山県有朋(やまがたありとも)さんも西園寺首相に陸軍側の要求に応えてくれないだろうかと陸軍側の意見を再度伝えています。しかし西園寺さんに要求は断られてしまいました。
その後再び山県さんは西園寺首相と会談する機会を作り再度同じ内容を要求します。しかしここでも西園寺さんが受け入れません。山県さんは政権側が陸軍側の要求を飲まないことによってあなたの政権がもたなくなると首相に伝えた、そんな指摘もあるようです。
結果的には西園寺内閣は陸軍大臣の人事が決まらず退陣となります。山県さんはもともと軍備の増強に当時大変熱心だったそうで、19師団しかなかった陸軍を「25師団まで増やすべきだ。戦争になった場合はさらに増やすべきだ。」と1906年頃の時点で既に主張していました。その主張は目標としては天皇や当時の首相だった西園寺さんからも認められてはいました。(そういう目標は認めるということであって、すぐ実現しますという話ではありませんでした。だから西園寺さんも当時同意したということのようです)
山県有朋さんは陸軍に強い影響力を持っていた人物でした。そもそも軍部大臣現役武官制という決まりを作ったのも、この山県有朋さんが首相を担当していた内閣(第2次山県内閣)です。軍部大臣現役武官制という決まりは1900年に作られていました。
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今回は2個師団増設問題を取りあげてみました。第2次桂太郎内閣の後に誕生した第2次西園寺内閣の時代に発生した大変有名な出来事のようですし、軍が内閣を退陣に追いやったという今後の歴史の流れを考えると非常に重要な出来事のようにも思ったので今回このテーマを取りあげてみました。
軍が内閣を退陣に追い込むという構図は今の時代を生きる私にとっては大変異常な構図に感じますが当時の世の中ではどう受け止められていたのでしょうかね。このようなことがまかり通ってしまえば、軍の考えに従わない内閣はすべてこの手法で政治を続けられなくなってしまいます。軍主導の政治にどうしても流れて行きがちですよね。
この問題のそもそもの原因は軍部大臣現役武官制という決まりにあるということで間違いないのではないでしょうか。当時の西園寺内閣にはこの決まりを撤廃する考えが無かったのでしょうか。内閣ではどうすることもできない決まりだったんでしょうかね。となりますと、軍部大臣現役武官制を盾に内閣を倒そうという軍の動きを防ぐことが出来るのは時の天皇が持つ大権しか無いということなのでしょうか。
このような展開となって西園寺内閣が倒れたのを見て大正天皇はどう思われたのでしょう。そして上原陸軍大臣が大正天皇に辞表を提出した時に「そんな無理を言うものではない。引き続き内閣を支えるように。」と言って辞表を受け付けないという選択肢は大正天皇側には無かったのでしょうか。何も知らない素人の考えですが、この出来事を調べていてそんな風に思いました。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
増設問題関連記事「大正政変とは?この政変が起きた原因や政変の意義についても」はこちらです。
二個師団関連記事「陸軍による2個師団増設要求が第二次大隈内閣で議会通過するまで」はこちらです。
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