宣戦布告から終戦までの日清戦争の経過について

宣戦布告

 

甲午農民戦争をきっかけに日本と清国の軍隊が朝鮮国内に入り、農民戦争が一旦収束しても日本、清国両軍が撤兵しませんでした。朝鮮国の内政改革に日本と清国が関与するという日本側の提案を清国は受け入れませんでした。清国の軍を朝鮮から撤兵させることと清国と朝鮮国の外交関係を対等なものに改めるよう日本側が朝鮮国に求めます。

日本の要求に対する返答期間が経過した後に日本軍は朝鮮王宮を攻撃し、朝鮮国王の身柄を確保し新政権を成立させました。新しい政権は清国の軍を追い払うよう日本側に要請します。また日本政府は朝鮮国の内政改革に関する提案を清国が拒否したことを理由に清国と国交を断絶することを表明しました。

西暦1894年(明治27年)の8月1日に日本も清国も互いに対して宣戦を布告します。この宣戦布告前に日本と清国の間で武力衝突が既に発生していました。朝鮮半島の西岸、豊島(ほうとう)の沖で戦い、日本側が勝利していました。

 

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戦争の経過

 

まず朝鮮半島内で日本側と清国が戦います。朝鮮半島北部の拠点、平壌が戦場となりました。この戦いでは清国側の指揮系統に乱れがあったそうです。清国側の抗戦派の人物が戦死し清国側は退却しました。

宣戦布告から一か月経過した時期に双方の海軍が黄海上で戦うこととなります。この海戦でも日本側は勝利し、日本軍が海上で優位に行動できるようになりました。

次に日本側は清国の領土である遼東半島を攻撃しました。半島の先端に旅順(りょじゅん)という場所がありますが、ここには要塞が存在し戦略的に非常に重要だったようです。この旅順要塞での戦いでも日本は勝利し9月の下旬には要塞の占領に成功しました。

朝鮮半島の清国の軍は清国領土に撤退し、10月には清国と朝鮮国の国境である鴨緑江(おうりょくこう)で戦闘が行われました。この戦いでも日本の攻勢によって清国の軍は撤退し国境付近の拠点を日本側が占領することに成功します。

次に日本軍は遼東半島の対岸にあたる山東省を攻撃します。12月に山東省の山東半島の先端にある当時威海衛(いかいえい)と呼ばれた地域の要塞を占領し清国の艦隊が存在していた軍港を包囲します。清国側は軍艦から砲撃するなどの抵抗を見せましたがその後降伏します。その後山東半島の対岸、遼東半島全域の制圧に日本側は成功しました。

1895年(明治28年)の3月に入り台湾島の西側、台湾海峡に存在する澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本は攻撃しました。これは台湾を日本領とするために行われたそうです。

 

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講和に向けての動き

 

1894年の11月頃にはアメリカやイギリス、ロシアが日本と清国の間の調停を行うことをはたらきかけてきます。

日本政府側は1895年に入り2月から清国政府要人との接触を行いました。しかし日本政府側は委任状や地位などを理由にして清国政府の派遣する人物と交渉をおこなわず、結局実際の講和のための交渉が始まったのは3月に入ってからでした。3月30日に休戦の約束が結ばれ5月8日に講和条約の効力が発生し正式な戦闘停止、終戦となりました。

 

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今回は日清戦争について取りあげてみました。明治時代の大変重要な出来事ですし、歴史の授業などでこの戦争の結果については知っていましたがどのような経過をたどって勝利したのかについては個人的に全く詳しくはなかったためこれを機会に調べてみようと思いました。

朝鮮国を従属状態に置き続けたい清国に対し、朝鮮王宮を攻撃し朝鮮に新しい政権を作ってその政権に清国の軍を追い払うよう日本へ要請させるといった強引な手法をとった日本。両国の関係は悪化し戦争へなだれ込んでいきました。平壌での戦い、黄海での海戦、旅順での戦い、鴨緑江での戦い、威海衛での戦い、遼東半島での戦いなどといった主要な戦いで日本は清国に敗れることなく講和に至ることになります。

何故ここまで日本側が勝利できたのでしょう。清国側は軍制改革が日本ほどできていなかったんでしょうか。清国の海軍である北洋艦隊は日本にとって脅威だったそうですけれどね。(1891年に北洋艦隊は親善目的で日本を訪れています。)武器の装備に大きな差は無かったものの、兵員の教育、訓練に違いがあったという指摘はあるようです。

徳川幕府時代に日本が交易していた国は清国とオランダの二カ国だけだったと歴史の授業で習った記憶があります。そういう長らく友好関係にあった国と戦争しなければならなかったんでしょうか。明治天皇も日清戦争について不本意であるとの考えを述べられていたそうです。日本のトップが日清戦争に反対なのに戦争してしまうというのは専制的な政治をしていない証拠とも言えますが、妙な話にも感じます。

徳川幕府は朝鮮国が清国の従属下にあることを容認していたのでしょうし、徳川幕府の時代が続けば日本の近代化が遅れてしまっていたかもしれませんが清国との関係は良好なままだったかもしれません。江戸幕府の幕臣として有名な勝海舟という人も日清戦争に反対だったそうです。清国が日本に負けることによって欧米列強の清国侵略がますます進んでしまうことを心配していたみたいですね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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