日露戦争の開戦と旅順攻略、奉天会戦、日本海海戦について

日露戦争の始まり

日露戦争は西暦1904年の2月日本とロシア帝国両国が宣戦布告し始まりました。その直前に日本がロシア帝国に対し国交の断絶を通告しています。

1903年に日本はロシアと交渉の機会を得てはいましたが、現在の中国東北部、いわゆる満州地域のロシア側の権益を認める代わりに、ロシアは日本が朝鮮半島地域の権益を認めるよう日本がロシアに提案してもロシア側は日本の望むような反応を示しませんでした。朝鮮半島の南半分に関しては日本の権益を認めるものの朝鮮半島の北半分については日本の提案を認めないという回答だったそうです。この話し合いにより、日本にとって妥協の出来る余地は無いと当時の日本政府は考えます。

日本政府はロシア帝国がシベリア鉄道の整備を進めて東アジアに大量の兵員、軍事物資を輸送できるようになることを恐れていたそうです。そうなってしまう前に戦争を行いロシアに勝利する必要があると考えたという指摘があるようです。宣戦布告後の最初の軍事衝突は日本海軍による遼東半島の先端にある旅順(りょじゅん)という拠点の攻撃でした。

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旅順攻略

日本の陸軍が旅順を1904年の8月以降攻撃し続けました。しかし要塞は大変強固であったため、短期間での攻略は出来ず、要塞周辺の丘陵を制圧することに時間がかかりました。12月から1月にかけて203高地と呼ばれる丘や要塞攻略に極めて重要な場所となる「望台」と呼ばれる高地を日本側が占領することに成功しました。この結果守備していたロシア軍は降伏することとなります。

奉天会戦

奉天会戦(ほうてんかいせん)の奉天ですが、現在は中国の遼寧省(りょうねいしょう)の瀋陽(しんよう)という都市が存在する場所を以前は奉天と呼んでいたそうです。この奉天で1905年の3月、日本とロシアの多数の兵員が戦っています。日本の陸軍とロシア軍の兵員の数の比率は2:3でロシア軍の兵員数が勝っていました。

日本側は多数の犠牲を出し苦戦しながらロシア軍との戦いを継続しました。ロシア軍を取り囲み攻撃を続ける過程で日本軍に逃げ道を塞がれてしまう危険を避けるためロシア側は内陸側に移動していきました。ロシア側が去った奉天を日本側が占領することに成功します。ロシア側は一時的に内陸部に撤退するだけの方針だったようですが、ロシア軍内部の秩序が相当乱れたらしく、結局当初の方針よりもずっと北のハルピンまで退却する結果となります。その後は日本、ロシア両軍の消耗が著しくこの戦い以降大規模な衝突無く、現在の吉林省の四平で向かい合ったまま経過したそうです。

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日本海海戦

1905年の5月には日本とロシアの海軍が日本海で戦います。日本海海戦(にほんかいかいせん)です。バルト海を拠点とするロシアの艦隊、バルチック艦隊は当時の世界レベルで相当な強さだという評判のあった艦隊だったようです。日本海軍はこれに対し複数の艦隊で構成する連合艦隊で対抗しました。この海戦は5月27日から29日まで行われ日本の海軍が圧勝するという当時の世の中では多くの人が予想しなかった結果となります。この海戦に敗れロシア帝国は日本と講和する動きを見せるようになったそうです。

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今回は日露戦争で非常に有名な戦いとなった旅順、奉天、日本海での戦いについて大まかな内容を取りあげてみました。日露戦争で勝利したことは学校の授業でもちろんやりましたが、日本海海戦の勝利は記憶しているものの他の戦いについては特に印象に残っていませんでした。どれくらいの勝ち方だったのかについてよくわかっていなかったこともあって、旅順、奉天の戦いについても扱ってみた次第です。

日本海海戦は日本側が圧倒したようですが、旅順、奉天共に陸での戦いは本当に苦戦したということを今回調べてみて知る結果となりました。苦戦して当然ですよね。奉天での戦いは相手の兵員数が1.5倍なのですから。日本側の犠牲が多くなるのも当然です。そのような中ロシア側を一時的にでも退却させたのは、多数の犠牲を出しているにもかかわらず一向に攻略を諦めようとしない日本陸軍に恐れを感じたからなのかもしれません。退路を断たれるかもしれないとロシア側は心配し奉天(瀋陽)からさらに内陸の鉄嶺(てつれい)に移っていったわけです。ロシア軍の士気が低下していたというのはそれだけ日本側との戦闘がロシア側にとっても恐ろしかったということなのでしょう。相手に比較して兵員数が少ない場合でも陸上の大規模な戦闘で勝利することがあるものなのですね。意外という他ありません。日本陸軍側の用兵がそれ程すぐれていたということなのでしょうか。

日清戦争での犠牲者数(約11000人という指摘があります)に比較しはるかに多くの犠牲者(幅がありますが約84000人~約110000人という指摘があります)がこの戦争で出たということを今回知ることとなりましたが、あまりに犠牲が大きくなってしまうからと言って日露戦争を回避しロシア側に朝鮮半島を支配されたところで、ロシアが朝鮮半島だけで勢力拡大を止める保証など無かったのでしょう。その後ロシアによる侵略を防ぐための戦いを日本は強いられる結果となっていたのかもしれません。その場合はその場合で大変な犠牲が出たのでしょうね。それとも日清戦争をしなければロシアも満州地域に進出せず、朝鮮半島にもあからさまな介入はしないでこのような結果(日露戦争)にはならなかったんでしょうかね。こういう仮定に意味は無いでしょうか。

上記の通り多くの日本兵の方がたがこの戦いでお亡くなりになりました。ロシアの人々もたくさん亡くなりました。多くの先輩方が命を懸けて日本国を守ろうとしたこの出来事を忘れてはならないと記事を作っていて感じた次第です。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載した写真に関係はございません。ご了承ください。

※令和元年(2019年)11月16日追記

過去に作成したこの記事について補足しておくべきと思われる事実がありましたので追記します。日露戦争は両国が宣戦布告(宣戦布告は2月10日)する以前に戦闘が始まっていました。2月8日に日本海軍が旅順という軍港にいたロシア海軍の艦隊を攻撃しました。その攻撃よりも前に日露間の国交は断絶(国交断絶は2月6日)されていました。

日清戦争関連記事「宣戦布告から終戦までの日清戦争の経過について」はこちらです。

世界大戦関連記事「第一次世界大戦時、参戦した日本の山東省や南洋諸島での動き」はこちらです。

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