鎌倉幕府が滅亡した時期はいつ頃だったのでしょう

いつ鎌倉幕府が滅亡したのでしょう

 

源頼朝(みなもとよりとも)さんが征夷大将軍に就任したのは建久(けんきゅう)三年、西暦1192年だったと言われているそうで、この年は鎌倉幕府が開かれた年としても有名です。鎌倉幕府は将軍担当者が頼朝さんの子孫ではなくなるといったことにもなりますが、将軍を補佐する立場の執権という役職についていた北条家が政治を仕切り、幕府という枠組みを維持し続けました。そんな鎌倉幕府が政治の中心であった鎌倉時代にも終わりがやってきます。鎌倉幕府が滅んだのはいつだったのでしょう。鎌倉幕府に対し有力な武装勢力が反乱(幕府勢力から見ると「反乱」になります)を起こし権力を行使してきた北条家の人たちが命を落とす結果となった戦いがありました。この時に鎌倉幕府は亡んだとされています。当時の政治の中心地であった鎌倉が反乱勢力によって攻め落とされたのは元弘(げんこう)三年5月22日だったそうです。これは旧暦の日付でしょうから、現在の暦にしますと西暦1333年7月12日が同じ日にあたります。ということで鎌倉幕府滅亡は元弘三年5月22日、西暦1333年7月12日だったということになります。

 

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反乱

 

鎌倉幕府のおこなっていた政治に不満を持っていた武士が当時たくさん存在していたと言われていますが、そのような不満を持った勢力が決起するきっかけを作ったのは権威のある人物でした。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)という人物が鎌倉幕府を倒すよう幕府に不満を持った勢力に呼びかけ、それによって幕府に対する攻撃がおこなわれるようになったようです。天皇のはたらきかけに本来幕府側の軍勢の一部を率いる立場だった足利尊氏(足利高氏 あしかがたかうじ)さんたちも幕府を裏切って京の鎌倉幕府関連機関、六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻撃し幕府勢力を京から追い払いました。尊氏さんらの軍勢は鎌倉幕府から後醍醐天皇側の武装勢力を倒すように命令を受けて京に向かったのですが、全く逆の行為をしたわけです。関東でも新田義貞(にったよしさだ)さんというかたが有名ですが後醍醐天皇の呼びかけに応じ軍勢を率いて鎌倉幕府側の軍勢に攻撃を仕掛ける人たちが出てきて、幕府側との戦いに勝利しました。鎌倉は反幕府勢力によって制圧され、追い詰められた幕府の支配層、北条家の人々は先祖の方々の位牌が収められている鎌倉にあったお寺(東勝寺)に逃げ込み一斉に自害するといういたましい結果となりました。

 

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当時の鎌倉幕府の将軍は

 

滅亡した頃の鎌倉幕府にも征夷大将軍を担当されていた方がいました。鎌倉の政権を開いた源頼朝さんの子孫ではありません。その頃将軍だった方は守邦親王(もりくにしんのう)というかたで第89代天皇である後深草天皇というかたのお孫さんにあたるかたでした。皇族の方です。この方は鎌倉幕府が無くなってしまう際に将軍職を退き、北条家の多くの人々のように自害するという道を選ばず、出家することとしたそうです。しかし出家したものの、間もなく亡くなりました。ただ亡くなった時の年齢は満32歳だったようです。お亡くなりになるには早すぎる年齢です。

 

鎌倉幕府滅亡後

 

鎌倉幕府を倒すよう呼びかけた人物、後醍醐天皇は幕府勢力が倒されたことで政治権力を手中に収めます。当時天皇の立場にあった別の人物、鎌倉幕府と良好な関係にあった光厳天皇(こうごんてんのう)というかたの天皇の立場をはく奪します。歴代の天皇が継承する三種の神器も後醍醐天皇側に奪われます。光厳天皇はそもそも天皇に就任しなかったということにされてしまいました。後醍醐天皇は再び天皇の座におさまり自ら率先して政治を仕切ることになります。

 

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今回は鎌倉幕府の滅亡について一部取りあげました。室町幕府が始まった頃の話について記事にしようと思ったのですが、その前の時代、鎌倉時代の終わりから取りあげてみるのがいいかなと思い、今回はこのようなテーマの記事にしてみた次第です。後醍醐天皇の命令がきっかけとは言っても実際に鎌倉幕府を倒したのは鎌倉幕府に不満を持っていた武士勢力です。どうして不満を持った武士が出てきたかについてはしかるべき褒美をもらえなかったからとか幕府の政治のせいで貸金業者からお金を貸してもらいづらくなったからといった経済的な理由がよく挙げられるようです。そういった不満を持った武士に対して有効な解決策を鎌倉幕府はうつことができませんでした。お金に困って借金を重ねた武士のために借金帳消しの政策をおこなったそうですがそれが理由で経済的に困窮した武士に貸金業者がお金を貸してくれなくなって一層困ったとも言われているようです。鎌倉幕府はどうしたらよかったのでしょうね。幕府関係者が徹底的に支出を切り詰めて浮いたお金を困窮する武士に支給するとか、幕府が一定期間貸金業者から取り立てる税金を安くする代わりに貸金業者からお金を借りてそのお金を困窮する武士に支給するとか何か方法が無かったのでしょうか。借金帳消し政策というのは一時的には借金返済で困る武士を経済的に楽にしますが、その後お金を借りづらくなるのですから長い目で見ると良いのか悪いのかよくわからない政策ですね。鎌倉幕府での失敗例があるのに借金帳消し政策、徳政令(とくせいれい)は別の時代でもおこなわれることになります。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

新しい政権が京都で発足した事に触れている話「室町幕府という政権が京都におかれたのはなぜなのでしょう」はこちらです。

室町時代の世が混乱したきっかけについて触れている話「応仁の乱の原因は簡単に言うと何だったのでしょう」はこちらです。

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