鎌倉が幕府を開く場所とされた理由は何なのでしょう

鎌倉という場所に幕府を開いた理由

 

平家との戦いで源氏勢力が勝利し、その後の源氏勢力内での対立(源頼朝さんと源義経さんとの対立)も義経さんが亡くなったことで収束し、義経さんをかくまっていた奥州の藤原家が頼朝さんによって滅ぼされるという結果になりました。頼朝さんが率いる軍勢に匹敵する勢力はもう国内にいなくなります。建久(けんきゅう)三年、西暦1192年に朝廷は頼朝さんを征夷大将軍に任命することとしました。朝廷から将軍に任命されたことで頼朝さんの権威は更に増し、頼朝さんが政治を動かす力は強まりました。そんな頼朝さんが政権の拠点としたのは関東の鎌倉という場所です。鎌倉幕府とも言われますし政権が鎌倉にあった時代は鎌倉時代とも言われます。鎌倉は単なる地名にとどまらず、歴史では政権を象徴したり時代を区分する言葉にもなっているわけですが、頼朝さんが政権の拠点をこの鎌倉という場所に定めた理由は何だったのでしょう。地形や交通、勢力分布、地縁など複数の理由がよく指摘されているようです。

 

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地形

 

鎌倉はかつての相模国(さがみのくに 現在の神奈川県の大半にあたる地域)に位置している地域です。鎌倉は南側が相模湾となっていて海に面していて、北側、東側、西側には標高100mほどの丘が存在する、そのような地形となっているそうです。武装勢力が鎌倉という場所に攻勢をかける、侵入する場合、この鎌倉を取り囲む丘や海が障害となります。平地よりも丘を越える方が当然手間取りますし、海を渡って鎌倉に侵入するなら船を使わなければなりません。船を使わなければならない場合、陸上よりも当然動き、進軍の速度が鈍くなりますし敵に見つかりやすくなります。元弘三年、西暦1333年には結局鎌倉幕府が滅んでしまいますが、鎌倉を拠点とすると少なくとも障害が何もない土地に比べ、外部から攻められても自分たちを守りやすいという利点がありました。

 

地縁

 

鎌倉という地域は政権の最高実力者である頼朝さんにとって、もともとなじみのある場所でした。頼朝さんの先祖は長らく鎌倉を領地として生活していたのだそうです。源頼義(みなもとのよりよし)というかたが当時鎌倉を領地として所有していた平直方(たいらのなおかた)という人物から鎌倉の領地をもらい受け、それ以来頼義さんの子孫が鎌倉を拠点に生活していたのだそうです。この頼義さんの子孫が頼朝さんです。頼義さんは東北地方の武装勢力が京の中央政府に対し反乱を起こした時にそれを討伐したという、朝廷からしてみると功績のある人物です。

 

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交通

 

東海道という陸路は西暦800年代後半以降の大変昔の時代には存在していました。現在の三重県から関東の茨城県まで通じていたそうです。東海道という地域区分はもっと前から存在しています(西暦701年に完成した大宝律令で地域が区分されています)。鎌倉という土地はこの東海道の中ほどに位置する場所にあり、その点で交通上重要な場所にあたります。軍勢が移動するのにも便利でしょうし、物資の流通という点でも大きな幹線道路の近くに政権の拠点があると何かと便利だったことでしょう。

 

勢力分布

 

頼朝さんが中心となった源氏の勢力はどちらかというと国内の東側で強い勢力を持っていて西日本では大規模な戦いを繰り広げた相手である平家勢力の残党がいたりしました。西日本は東日本に比べると頼朝さんの影響力が薄い地域だったのだそうです。また西日本には京があり、京には朝廷が存在しています。朝廷は本音を言えば政治権力を持ち続けたいと考えていますし、朝廷を支援する武装勢力が全くいないわけでもないでしょうからそのような朝廷の近くで頼朝さんが政権を運営すると後々さまざまな干渉を受けることもあるかもしれません。西日本、とりわけ京は政権の拠点とするには頼朝さんにとって都合が悪かった、そのような指摘は多いようです。

 

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今回は頼朝さんが鎌倉を政権の拠点とした理由について取り上げました。鎌倉幕府、鎌倉時代と言われますがどうして鎌倉なのかと問われると個人的には正直理由がよくわかりませんでしたので確認したく、家康さんが江戸を拠点にした理由についても以前記事にしてみたことがありましたのでこのようなテーマにしてみた次第です。理由が複数あるようですが鎌倉が攻められにくく、味方が多く、交通上便利で馴染みのある土地であれば、敢えて別の土地でわざわざ政権を開く必要もないと考えるのも自然なことなのかもしれません。また上の項目で触れませんでしたが、かつて源氏勢力の競争相手だった平家勢力が強い権限を持っていた頃には京周辺が政権の中心となっていました。その結果武士であるはずの平家の人たちは京の朝廷と関わる過程で次第に貴族のようになっていき戦闘をもっぱらとする武士本来の姿から変質していったと言われているそうです。頼朝さんはそのような事例を承知して出来るだけ貴族化の危険性を減らすためにも京から距離を置こうとしたという、そんな見方もあるようです。「朱に交われば赤くなる」とも言いますし、身を置く環境というのはあとあとかなり影響してくるものだと思っておいたほうがいいのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

室町時代の幕府の場所について触れている話「室町幕府という政権が京都におかれたのはなぜなのでしょう」はこちらです。

江戸時代の幕府の場所について触れている話「江戸幕府が江戸という場所で開かれた理由は何なのでしょう」はこちらです。

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