鎌倉幕府の話で出てくる地頭(じとう)とは何なのでしょう

鎌倉幕府の話で出てくる地頭とは

 

源頼朝さんが征夷大将軍に任命されて鎌倉を拠点に政権を運営する、いわゆる鎌倉幕府が開かれました。その幕府が任命して地方に派遣する役職として守護(しゅご)というものがあって警察機能を果たしたり、地域に住んでいる幕府に所属する武士に幕府から要請された仕事をさせるといった役目を担当していた、そのような話を先日の記事で取りあげました。鎌倉幕府は守護の他にも地頭(じとう)を設けたと言われており、学校の授業でも教わる項目に含まれていたかと思います。学校でも教わる(つまり重要な事項ということ)この「地頭」というのはどのようなものだったのでしょう。地頭は鎌倉幕府が任命する役職の一つです。幕府に所属する武士である御家人(ごけにん)から選任されていました。地方に存在する土地の管理や税の取り立て、それから担当地域の治安を守ることも任されていたのだそうです。

 

スポンサーリンク

どのような土地を担当したのでしょう

 

「はい、あなた地頭をやってください」と幕府から任命された御家人はどういった土地の管理を任されたのかというと朝廷が地方に所有する土地や貴族の人たちあるいはお寺、神社といった宗教勢力が地方に所有する土地でした。地頭のような制度が創られ始めた頃、幕府や武士が所有する土地の管理を任されたわけではなかったようです。朝廷の所有する地方の土地は公領(こうりょう)、貴族の人々や自社の人々が地方に所有する土地は荘園(しょうえん)と呼ばれます。そのような土地で収穫される農産物の一定割合を税として取り立てる権限を地頭は与えられました。公領や荘園を他の勢力に好きにさせない、奪われないようにするための警戒監視もしていたのでしょう。

 

治安も守る

 

地方に派遣される守護という役職も現代の警察のように犯罪人や犯罪組織を追跡し捕える役割を担当していましたが、地頭も犯罪人を捕え、それだけではなく裁きをおこない、罰を与える役目を担当していたそうです。守護の役目と重複していることになります。守護の担当者と地頭の担当者が地域の治安維持のために協力する場面も当然あったことでしょう。

 

スポンサーリンク

トラブル

 

幕府から任命されて担当する土地が朝廷、貴族、寺社の土地なわけですから元々そういった土地の所有者と地頭担当者の間でトラブルが発生していたようです。地頭が派遣される以前に比べ朝廷や貴族、寺社の税の取り分が減ってしまうからです。地頭側と元々の土地所有者の利益の取り合いを解決するためにいくつかの方法が取られたと言われています。地頭が土地所有者のためにもきちんと税を取り立てて土地所有者に取り立てたものを引き渡す代わりに取り立てたものの中から一定割合の利益を地頭が得られるようにするという方法や土地を元々の土地所有者と地頭で半分に分け合って元々の土地所有者も地頭もお互いに土地の所有権を認め、以降は自分の土地からだけ税を自分のために取り立てるという方法がとられる場合もあったそうです。

 

設けられたいきさつ

 

上の項目で述べたように朝廷や貴族、お寺、神社にとっては地頭の登場で所有する土地から得られる利益が減るのですからやっかいな仕組みです。「地頭なんていないほうがいいよ」と当然思うところですが、この仕組みは守護の創設と同じように国内で源氏と平家が戦っていた時期、源頼朝さんと源義経さんが対立していた時期という混乱した時に認められ始めた仕組みだったそうです。平家の残党や義経さんを追跡するために地方に頼朝さんの勢力に所属する人々がいなければなりませんので朝廷や貴族、寺社の人たちもしぶしぶ認め始めたということのようです。そういった混乱が無くなって頼朝さんの勢力が強大となってからはそれまでに比べ世の中が平和になっても強引に地方に地頭を置かせることを頼朝さん側は朝廷などに認めさせることとなります。頼朝さん側の全国支配が進みました。

 

スポンサーリンク

今回は地頭について一部取りあげました。地頭という役職については「泣く子と地頭には~」などと言う表現を社会の授業で聞かされた記憶もあり多少憶えてはいましたがどのような役割があったのかについては「税の取り立て」くらいしか思い浮かびませんでした。先日守護の役割を調べてみましたので地頭の役割についても改めて確認してみたくこのようなテーマの記事にした次第です。地頭の税の取り立てが怖かったということを象徴する事例として「税を納めないと鼻を削ぐぞ!」的な脅しもあったという話を見かけることがありました。現代の質の悪い借金の取り立てのようですね。今の世の中の場合、公的機関の税の請求は幸いなことに人権に配慮していただくので納税義務のある人に対し最初から乱暴な態度で出ることもありません。ありがたいことです。地頭を設置した当初は西日本の土地所有者からの反発が強くあまり定着しなかったそうですが、朝廷が幕府と争って手ひどく敗れた承久の乱(じょうきゅうのらん)以降は幕府が朝廷側に立っていた勢力の領地をたくさん没収したことで地頭の仕組みが更に普及しました。戦争で決着がつくと一気に制度が移行していくもののようです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

鎌倉幕府が設けた別の役職、守護について触れている話「鎌倉幕府の守護(しゅご)とは何なのでしょう」はこちらです。

別の時代の税負担について触れている話「江戸時代に課されていた年貢の割合はどれ位だったのでしょう」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る