江戸時代になぜ大規模な一揆が島原で起きたのでしょう

江戸時代になぜ島原で大きな一揆が起きたのか

日本史、江戸時代の歴史、あるいは島原の乱(しまばらのらん)について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では江戸時代にどうして九州の島原で大規模な一揆、反乱行動が発生したのかについて私なりに書いてみたいと思います。島原(しまばら)は九州の長崎県内にある一地域です。江戸時代の日本で寛永十四年(1637年)、江戸幕府の将軍が徳川家光さんであった時期なのですが、この時に島原で多くの人々が関わる反乱行動が発生しました。地元を治める大名の抱えている兵だけでこの反乱、一揆を鎮圧できなかったことで江戸幕府が乗り出し、四か月の期間をかけてようやく幕府側が勝利するという経過をたどります。全国を治める江戸幕府勢力が短期間で制圧することの出来なかった一揆として大変有名な話です。島原の乱と呼ばれるこの反乱に参加した人々の人数は3万7千人ほどだったという見方が多いようです。反乱に加わった人々の大半が幕府側によって命を奪われる結果となったと言われていますが、お上にたてついたら命が危険であることは十分承知していたであろうにもかかわらず、なぜ一揆をおこなうことにしたのでしょう。多くの人々が蜂起した背景として地元である島原の国で住民の方々に課されていた負担が大変重く、受け入れがたい厳しい政治がおこなわれていたからといった理由やキリスト教を信仰する人に対する弾圧のしかたが大変厳しかったからなどといった理由がよく指摘されています。この島原の乱には現在の長崎県島原地方だけではなく天草(あまくさ)地方(現在の熊本県天草市にあたる地域)に住んでいる人々も加わっていました。天草地方は島原地方から見て南に隣接する複数の島で構成されている地域です。

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重い負担

島原地域は時期によって治める存在が大名だったり江戸幕府の直轄地だったりといろいろと変遷しました。島原の乱が発生した頃現地を治めていたのは幕府ではなく松倉(まつくら)家という大名です。島原の乱が起きる二十年ほど前に松倉重政(まつくらしげまさ)さんが地域を治めることになって島原にやってきました。松倉家の統治はかなり厳しかったそうで領地内で生活を送る領民の方々にすごく重い税負担を課していたと言われています。住民の大多数は農業従事者の方々だったので、収穫物のどれくらいの割合を税として徴収されていたのかを見れば税負担の程度を想像しやすくなります。松倉氏が課した税の割合を島原の乱について調べた範囲では見つけることが出来ませんでした。しかし島原藩で検索していると九公一民といったキーワードが出てきます。出典がわからないので半信半疑な所もありますが、九公一民が事実であるとしましたら松倉氏は指定された土地の収穫物の90%もお上のものとして農業従事者から収奪していたことになります。そんなに持って行かれたら領民の方々が飢え死にしてしまうような気がしますが、そのような税制がある程度の期間続いていたということは税負担が課されない土地からの収穫物というのもあったということなのかもしれません。とは言え江戸時代の年貢の取り立て割合としては五公五民(半分取り立て)とか四公六民(四割取り立て)という場合が多かったようですから、九公一民という割合は相当過酷だということは明らかでしょう。あくまで九公一民が本当ならという話ですが。領民からそのようにたくさんの収穫物を取り立てた松倉氏は国力に見合わない城を建築したり、多額の費用をかけて江戸幕府の城の工事に協力したなどと言われています。幕府との関係を良好に保ちたいという思惑があったということなのでしょうかね。

キリスト教弾圧

また領民に対する重い税負担の他にも松倉家は厳しい宗教政策をとったと言われることが多いようです。当時の日本は江戸幕府の意向で様々な地域でキリスト教に対する弾圧がおこなわれていたので島原藩だけが特別というわけではありませんが、幕府からのキリシタンに対する厳しい措置をおこなうよう要請があったということもあり、信仰を棄てる(すてる)、改宗するよう命令しても応じない人にはとても過酷な仕置きがなされてしまいました。焼き鏝(やきごて)を体にあてられてしまうとか刃物や針で改宗しない者の体を傷付ける(具体的な描写はかなり残酷ですので避けておきます)といった話は有名なようです。他にもあったようですがここで紹介するのもはばかられるようなひどい虐待が待ち受けていました。幕府から厳しく対応するように命じられる以前は松倉家も比較的キリシタンに対して穏便な対応だったという話はあるようですので、松倉家の宗教政策は江戸幕府の影響によるものと言うことも出来るのでしょう。しかしキリシタンではなくても決められた年貢をお上に納めることが出来なかった領民は先ほど紹介したむごい仕打ちと変わらないくらいのひどい目に遭わされてしまう事例もあったそうです。年貢を納められなかった世帯の身ごもった女性をお役人が捕えて水を使用した拷問をおこない、死に至らしめてしまったことが島原の乱発生の直接の原因だといった見方もあるようですので、キリシタンだけではなく税を納めない者にも容赦ない罰を科していたことが、こういった話からも推測されます。島原はもともとキリシタンである大名(有馬家)が治めていた土地でしたのでキリスト教を信仰していた人が多く、必然的にたくさんの人々が弾圧される結果となりました。

今回は長崎の一地域、島原でなぜ大きな反乱が江戸時代に起きてしまったのかについて取り上げました。紫衣事件(しえじけん)を先日取りあげたのに続き、この島原の乱も江戸時代に発生した大変有名な出来事でしたが、これまでこのサイトで直接扱うことはありませんでした(江戸幕府のキリスト教政策については触れる記事も作ったことがありました)。島原の乱について、江戸幕府も相当手を焼いた出来事ということは何となく知っていたものの、どうして島原でそのようなことが起きたのかが正直よくわからなかったのでたくさんの人たちが島原の乱を扱っていますけれど、理由を確認してみたく記事にした次第です。キリスト教徒が多かった地域は九州の他の場所にもおそらくあったのだろうと思うのですが、島原のような特定の地域に限って大規模な一揆が発生してしまったのには、やはり大変な負担を強いられていたことが大きく関わっているのだろうなと感じました。当時の幕府も領民に対するあまりに過酷な政治と解釈したということなのか、島原藩領主の松倉家当主を島原の乱平定後に武士の名誉である切腹で自害することを許可せず、処刑するという措置をとっています。幕府がそれくらいしないと領民の気持ちがおさまらないということだったのかもしれません。一国の領主に対し幕府がそのような方法で死に至らしめるという判断をくだしたことは極めてまれだったそうで、こういったことからも松倉家の政治は相当特殊だったということを示しているように思います。重税だけではなく、税負担の規則を守れない者に対しては筆舌に尽くしがたい罰を科すという、まさに生き地獄をこの世に体現してしまった松倉家のお殿様は自分の身を滅ぼし、かつ後世に至るまで悪い評判を残してしまう結果となりました。この記事を作っていて、統治者として成功するためには国の大半の人々が経済的に余裕を持てる政策をおこなうことがやはり必要なのだろうなと改めて感じました。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では上原淳也さんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

江戸幕府のキリスト教政策について触れている話「江戸時代にキリスト教が禁止された理由は何なのでしょう」はこちらです。

まったく別の時代に発生した国内武装蜂起について触れている話「2・26事件とは?昭和天皇の対応や裁判の結果についても」はこちらです。

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