江戸時代初期の朝廷に対する扱いを表す紫衣事件とは

紫衣事件に見る江戸時代初期の朝廷の扱い

日本の歴史や江戸幕府、皇室の話について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では江戸時代、江戸幕府が政治を仕切っていた時代に発生した出来事である紫衣事件(しえじけん)について私なりに書いてみたいと思います。この出来事の名前となっている紫衣(しえ)というのは仏教のお坊さんが身に着ける衣装についての呼び名です。紫色の僧衣であり、皇室から非常に評価されているようなお坊さんだけが身に着けることを許されるような、そういった意味合いの衣装でした。紫色というのは高い身分を示すような色として使用されていたようです。この紫衣について、お坊さんが身に着けることを決めることが出来るのは朝廷の権限とされていました。しかし江戸時代の初めの頃この権限について従来通り朝廷の意向が通せなくなった出来事というのが紫衣事件と呼ばれる話です。簡単に表現すると朝廷が考えるようにお坊さんに紫衣を着る資格を与えることが江戸幕府の方針によって出来なくなってしまったということです。朝廷の権威というのは長い間保たれていましたし当時権力を行使していた江戸幕府も朝廷に対して一定の配慮をしてはいました。しかし朝廷の決めた事であっても幕府の方針と異なっていれば、幕府の意向を通し朝廷の考えを退けるという当時(江戸時代初期)の幕府の姿勢がこの紫衣事件で象徴されているように思われます。この出来事は寛永四年(西暦1627年)から問題が表面化したようです。そして2年後には当時の天皇が突然譲位するという事態になってしまいました。従来紫衣の使用を許可してきた朝廷にどうして幕府が干渉することになったのかについては次の項目で触れてみることとします。

禁中並公家諸法度

江戸幕府の最高権力者は征夷大将軍、将軍様なわけですが、しかるべき人物を将軍に任命するのは天皇です。しかし江戸幕府は自分たちの親玉である将軍を任命する天皇をトップとした組織、朝廷に対して法令を設けて縛りをかけました。有名な禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)という呼び名の法令です。天皇のお仕事の内容や重要な役職である摂政や関白の任免やら元号の決め方、天皇や公家の方々の着る衣装などについても色々と口を出す内容となっています。慶長二十年(西暦1615年)に出された法令です。今回話題としているお坊さんの紫色の衣装、紫衣についてもこの禁中並公家諸法度の中で触れられています。紫衣についてどのような内容が法度に盛り込まれたのかというと、簡単に言えば以前は紫衣の使用が許される僧は少なかったのに最近はたびたび天皇からのお許しが出たことで紫衣を許可される僧が多くなりすぎている。仏教界の秩序が混乱したりお寺の評判にも支障が出てしまうから今後紫衣を許可する場合は本当に紫衣にふさわしい僧なのかよく検討するべきです、といった内容のようです。やたらと紫衣を許可するな、きちんと検討するようにということを言っているわけです。禁中並公家諸法度が世に出されてから紫衣事件が起きるまで10年以上経過しています。その間朝廷は前例に従ってそれなりに紫衣の使用をお坊さんたちに許可してきました。幕府の出した法度にはみだりに許可するなとありますが、朝廷側としてはちゃんと考えて紫衣使用を許可しているよという見解だったのかもしれません。朝廷にしてみるといつも通りにやっていた紫衣の許可だったのですが幕府から急きょ法度を理由にダメ出しが出てしまいました。当時の幕府の重役から見て朝廷はやたらと紫衣を許可したと映ってしまったわけです。

天皇が譲位することに

寛永三年(1626年)に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は有名な臨済宗のお寺である大徳寺や妙心寺のお坊さんたちに紫衣の使用を許可しました。これに対して幕府の重役の人々が許可の無効を出します。ダメ出ししたわけです。法度にあるみだりに許可をした事例にあたると幕府側が判断した結果の措置でした。この幕府の態度に対して、京都の幕府の役所に抗議書を提出したり幕府の意向に従わなかったお坊さんもおられ、こういったお坊さんたちに対しては幕府側も姿勢を厳しくします。寛永五年(1629年)、紫衣の使用を天皇から許可され、幕府に抗議していた三名のお坊さんたちは幕府から東北地方への流罪を言い渡されてしまいました。おまけに慶長二十年(1615年)以降幕府からの許可が出ていない、朝廷からの紫衣の許可について取り消すことにしてしまいます。このような一連の出来事のあとに当時の天皇、後水尾天皇は幕府との話し合いをせずに自分の子供(娘さん)に皇位を譲ってしまいました。自分が出した紫衣使用の許可が不適切だと幕府から言われた上に、許可を与えた僧侶に対し幕府が流刑を科したり多くの紫衣勅許を無効とする動きに出たことについて相当怒ったことによる振る舞いだったという見方が多いようです。こうした天皇の意思表示とも取れるような譲位行動があったものの幕府はすぐに僧侶に対する流刑を取り消したり紫衣の使用禁止命令をとりやめるようなことはしませんでした。ただ天皇の譲位行動を重く見たためかお坊さんたちの流刑期間は3年ほどの間で済んだのだそうです。また紫衣使用の許可については幕府の京都にあるお役所、京都所司代の許可も得るようにするというきまりが定められることとなります。紫衣事件は天皇の意向よりも幕府の決定を重視する、貫くという態度を示す象徴的な出来事となったわけです。

今回は江戸時代の初めの時期に起きた出来事、紫衣事件を取りあげました。自分のサイトの中で江戸時代の出来事についてはそれなりに記事にもしてきましたが、まだ扱っていなかった有名な話が残っており、紫衣事件もその中の一つでした。調べてみたく今回このようなテーマの記事にしてみた次第です。江戸時代初期はかなり幕府側が強気だったのだなぁと今回の記事を作っていて感じました。これが江戸時代末期ですと幕府の意向に反発するような藩も出てきていましたし幕府側も朝廷に対してあまり高圧的に出ることは出来なかったのだろうなと思います。朝廷に対し失礼な真似をすると長州勢力などに格好の幕府批判の材料を与えてしまうでしょうから。紫衣事件が起きた時期は家康公が武力で国内をまとめてからそれほど期間が経っていなかったことが幕府の強気な態度と関係しているのかもしれません。江戸時代の間、常に幕府が朝廷に対し上から目線だったということではないのでしょうけれど、このように初期の時代には朝廷の意向に幕府が合わせるということはなく、朝廷に対する扱いが軽かったということもありました。朝廷の紫衣に関する権限に幕府が口を出した背景には大徳寺や妙心寺といった有名なお寺に対する幕府の統制、コントロールを強めたかったという幕府の目論見があったなどという見方もあるようです。また朝廷による紫衣の許可という権限についてはお寺から経済的な謝礼があったという話も目にしました。朝廷にとっては大切な収入ということで紫衣の許可件数がそれなりの数になっていたということなのかもしれません。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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今回の記事ではHiro1960さんによる写真ACからの写真を使用させていただいております

別の時期の朝廷と幕府の間の出来事について触れている話「江戸幕府将軍である徳川家茂公が上洛した理由について」はこちらです。

江戸末期に幕府が強硬な対応を取ったことについて触れている話「安政の大獄とは?断行された理由と西郷隆盛の関わりついて」はこちらです。

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