日露和親条約で定められた国境と開港した場所、条約の内容について

日露和親条約で定められた国境

 

この条約により千島列島に関する国境が決められました。境は択捉(えとろふ)島と得撫島(ウルップ島)の間に引かれ、択捉島から日本側は日本領、ウルップ島から北側の列島がロシア領となりました。

この条約の交渉では樺太(からふと)についても議論されていますが結局この時には樺太に関する国境の設定は見送られることとなりました。両国民雑居の地(交じって住んでいる土地)のままとしました。

 

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日露和親条約で開港した場所

 

この条約で開港することとなった場所は箱館、下田、長崎の三か所です。箱館、下田は日米和親条約と同様ですが、この条約では長崎も開港するとなっています。

 

条約の内容

 

第一条には両国が今後長期にわたり友好を結び互いの国に損害を加えないことが書かれています。

 

第二条には上記の通り国境に関する決定事項が書かれています。樺太についてはこれまで通り国境をもうけないとしています。

 

第三条には箱館、下田、長崎の港を開き、ロシア船の修理や燃料、食料、足りなくなった物品の供給をロシア船が金品で支払って行い、金品が足りない場合は相応の物品で代用する。難破船でない場合は他の港には決して行かない事。難破船に関する諸費用は箱館、下田、長崎の三か所のうちのいずれかで支払う事、といった、主に開港に関する事と補給を許可する内容が書かれています。

 

第四条には遭難した船員がいた場合には両国はお互いに助け合い救助した者は開港した場所へ送り届け、滞在が例え長期になるとしても法に従って適切な待遇をすること、とあり遭難者の扱いについて定めています。

 

第五条にはロシア船が下田や箱館に行ったときには必要なものを金品で購入する事を許可するとあります。

 

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第六条にはもしやむを得ないことがあればロシア政府から役人を箱館か下田のうち一か所に派遣し常駐する、とあります。外交官の滞在を許可する内容となっています。

 

第七条には裁判をするべきことが発生した場合には日本政府が慎重に取り扱う、とあります。日本政府が裁判をする権利を持っているという事になりますね。

 

第八条には両国に存在するお互いの国の渡航者が丁寧に待遇され拘束されないこと、ただし法を犯すものがいれば滞在国の法で対処する、という内容が書かれています。

 

第九条には日本とロシアはお隣の近い関係なので日本が他国に許可する様々な事はロシアにも許可すること、とあります。これは日米和親条約にもある項目、最恵国待遇を意味しているようです。

以上の内容は昔の言葉で書かれている条文内容を私なりに現在の表現にし直したものです。誤った箇所がありましたらお許しください。

 

この条約を結ぶ時に全権として協議した人物ですが、日本側は日米和親条約の際の全権、林復斎さんではありませんでした。筒井政憲(まさのり)さんと川路聖謨(かわじとしあきら)さんという方々です。一人ではなかったのですね。ロシア側はこの時来航した艦隊の責任者プチャーチンさんです。筒井さんは将軍に儒学の講義をするような教養のある人物だったそうです。川路さんも非常に有能な役人だった方だそうです。

 

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以前購入した高校生用の教科書の中では日米和親条約の他に日露和親条約についても触れていました。英国やオランダなど他の国とも同様の条約を結んだそうですが、あえて日露和親条約について書かれているのはなぜかなぁと思い記事を作ってみました。

北方領土のような問題も存在しますし、ここで国境を結んだというような事実は歴史学習上重要と文部科学省は考えたという事でしょうか。

日米和親条約の内容にもありましたが日本国を主語として最恵国待遇するよう書かれている条文が日露和親条約にも盛り込まれていることを知りました。片務的という事になりますのでこの条約も不平等な条約とみなされるわけですよね。この点については1858年に調印された日露修好通商条約で片務的な内容が変更されたのだそうです。意外に短期間で改善されたんですね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

開国関連記事「日米和親条約が結ばれた年号と条約を結んだ人、条約の内容について」はこちらです。

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