桜田門外の変とは?暗殺された人物と発生した場所や年号について

桜田門外の変が起きた年号

 

「桜田門外の変」が起きたのは西暦1860年です。日本の元号はその年に万延(まんえん)に変更されました。1860年は万延元年でした。その前の元号、安政の場合で表すと安政七年にあたる年となります。西暦1860年の3月にこの事件が起きています。

 

桜田門外の変が起きた場所

 

「桜田門外の変」が発生した場所は江戸城の門の近くでした。江戸城(江戸城は現在の皇居です)には門が複数ありその中の一つに桜田門という門があります。事件はこの桜田門の近くで起きました。桜田門は東京都千代田区霞が関にあり、桜田門の近くには現在警視庁の本部庁舎があります。

 

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桜田門外の変で暗殺された人物

 

桜田門外の変では当時の大老、井伊直弼(なおすけ)公が暗殺されました。井伊大老の暗殺が目的で起きた事件ですが、井伊大老の護衛をしていた彦根藩の方々も命を落とされています。事件が発生した時に彦根藩のお侍さんが8人亡くなり、彦根藩のお侍さんで生き残った方についてはその後藩主である井伊直弼公を守るお役目を果たせなかったという理由で罪に問われ、自害したり処刑されてしまった方々もおられたそうです。本当に厳しい対応ですね。当時の武士の世界では当然の対応なのでしょうか。

 

襲撃した犯人

 

この事件を起こしたのはどこかの藩に所属したお侍さんではなく、以前藩に属していた人たちでした。浪人だったという事になります。かつて水戸藩に所属していた人たちが中心となって起こしました。合計18人で襲撃したそうです。

ただ護衛をしていた彦根藩のお侍さんたちはそれよりも多い人数でした。籠を持っていた人など護衛ではない人も含め60人くらいの集団で江戸城に登城するところだったようです。彦根藩側のほうが人数では余程多かったのですが、元水戸藩士側は銃も使って襲撃したようで対応が困難だったようです。

この事件で暗殺された井伊大老はその現場で元水戸藩士たちに殺害されてしまいました。幕府側にとっては大変不名誉な事だったでしょう。そこまで好きなようにされてしまうとは想像もしていなかったのではないでしょうか。

 

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「桜田門外の変」の原因

 

井伊大老が推し進めた政治に反発したために元水戸藩士たちは暗殺を決行しました。ですから朝廷の許可なく日米修好通商条約を締結したことや当時の幕府の方針に反対していた人たちを多数罰した、いわゆる安政の大獄などがこの事件のきっかけとなったと考えられます。水戸藩の9代目の藩主、徳川斉昭(なりあき)公や水戸藩10代目の藩主、徳川慶篤(よしあつ)公は安政の大獄の時に謹慎という形で幕府から処罰されました。以前仕えていたお殿様が幕府によって処罰されたことを浪士の人たちは不満に思っていたのかもしれません。

 

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今回は「桜田門外の変」を取りあげてみました。この事件で井伊直弼公が暗殺されたことは社会の授業でもやっていたことなので知ってはいましたが、当時何人くらいの集団に襲われたのか、どれくらいの護衛がいたのかという事は全然知りませんでした。今回調べてみて圧倒的に護衛側の彦根藩の人たちの人数がまさっていたことを知りました。また元水戸藩士側が銃を使って襲ったという事も初耳でした。

安政の大獄で幕府は非常に厳しい姿勢で臨んだことですし、幕府を恨む人たちの反発は相当強かったことが想像されます。当然幕府側も襲撃を警戒していたと思いますが、まんまと成功してしまいました。幕府側も銃を使っての襲撃までは想定していなかったんでしょうか。

この事件は厳しい政治弾圧が権力者側に跳ね返ってきた格好ですが、もし安政の大獄のような対応を幕府がとっていなければどうなっていたでしょう。もっと穏便な処罰にとどめて死人を出さないようにするとか・・・。たとえ条約締結の反発が強まったとしてもそれ程恨まれることもなかったでしょうか。

ただ幕府の当事者としてはこのまま様々な人たちに政治的な発言を許しておけば、日本を統治すること、治めることが出来なくなってしまうかもしれないという強い危機感があったのかもしれませんね。

今回の出来事を調べていて、厳しい政治をしていると凄惨な事件を招く危険性が高まるものなのかなぁという気がしました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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