周王朝の封建制度とはどのような特徴を持つのでしょう

周王朝の封建制度とは

世界の歴史あるいは古代の中国大陸、周王朝に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では古代の中国大陸に存在していた王朝である周(しゅう)の仕組みであった封建制度について私なりに書いてみたいと思います。周は以前このサイトでも取りあげたことがある、中国大陸の大変古い時代に存在した王朝、殷(いん)が滅亡した後に誕生した王朝です。殷を戦いの末に滅ぼした武王(ぶおう)というかたが周王朝の王様となりました。この周王朝、正確にいつからいつまで存在していたかは定かではないようですが紀元前1050年代から800年ほど続いたと見られているようです。大変長く続いた国ですね。この国にはその前の王朝、殷とは違う統治の仕組みがあったと言われています。それがこの記事で取りあげようとしている封建制度(ほうけんせいど)です。封建制度については以前このサイトで日本の歴史を取り扱う中で記事にしたこともありましたが、日本の封建制度よりもはるか昔の話ということになります。封建制度という名称はこの中国大陸の王朝、周の話でも出てきますが日本の歴史でも欧州の歴史でも出てきます。ある地域を支配している最も偉い人が配下の人々に支配している地域の土地やその土地で生活している人々を分け与え、土地を与えられた人々は土地を与えてくれた偉い人に軍事力などの面で奉仕するような関係というのが封建制度という仕組みの大まかな内容かと思いますが、古代の周王朝と欧州の封建制度はかなり違うものだったと言われているようです。どう違うかについてですが、周王朝の場合土地を分け与えられる人々に特徴があったのだそうです。

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諸侯になる人たち

周王朝の王様から土地を分かち与えられる立場の人を諸侯(しょこう)と呼ぶのだそうですが、この諸侯の方たちは王様と血縁関係にあるかた、祖先が同じ一族のかたである場合が多かったという特徴があります。もちろん殷を倒したり、周が王朝として誕生するにあたって大変貢献した家臣、血縁関係に無い立場の家来の方々の中からも諸侯として王様に任命されたり、周王朝が支配下に納めた地域の地方有力者を諸侯に任命する場合もあったようですが、多くは血縁関係のある人を諸侯にしたという話です。周の前に存在したという王朝は周のような血縁関係にある人々を各地の統治者として任命したというわけではないそうで、地元の有力者に任せることが多かったなどといった見方もあるようです。そういった違いから殷よりも周のほうが統治体制はしっかりしていたと言えるのかもしれません。周のこのような人材配置が他の時代、他の地域で呼ばれる封建制度との違いとしてよく挙げられる特徴のようです。ヨーロッパで見られた封建制度の場合、地域を支配した主君が自分の支配した領地の土地を自分の一族に分配して統治させたというわけではなく、血縁関係とは別の、自分に従う契約を交わした人物に各地域の統治を任せるという仕組みだったそうです。契約というと事務的な、ドライな、一種軽いものといった印象を私などは持ってしまいますが、ここで出てくる契約はもちろん大変重大なものです。破ったらもう誰にも相手にされなくなる、死活問題となってくるものでした。ということで欧州の歴史に出てくる封建制度と周王朝で出てくる封建制度では配置される人材にはっきりとした違いがあります。

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家臣になる人たち

諸侯は周の王様に対して軍事面で支えたり、王様に貢物を捧げる(ささげる)などの奉仕をおこなったと言われています。それでは王様の土地や諸侯の土地では王様や諸侯がどうやってその地域を治めたのでしょう。王様や諸侯は自分たちの家来、家臣を任命して彼らに自分の土地の一部を分け与え、領地を治めるために働いてもらうこととしました。その家臣の立場の人を卿、大夫、士などと呼んでいたそうです。「けい」、「たいふ」、「し」と読みます。王様の直接治める土地には卿、大夫、士という立場の家臣が、諸侯が治める土地には大夫、士という立場の家臣がいたという見方もあるようです。同じ家臣であっても卿、大夫、士は身分が異なるのでこのように呼び名が別になっています。先ほどの項目で王様が諸侯に任命する人物には王様と血縁関係にある人が多かったと書きましたが、この家臣の立場を担当する人についても同様のことが言えたそうで、王様あるいは諸侯と血縁関係にある人、同じ一族の人が家臣となった場合が多いそうです。こういった諸侯、卿、大夫、士などといった立場は世襲されていくこととなります。支配する立場の人たちは同じ一族に属する人たちである場合が多かったという仕組みですが、こういった一族のことを「宗族 そうぞく」と呼ぶそうです。父系(ふけい)、つまり父方の血統が同じである、父方の祖先が同じであるという人々の集団で同じ姓を名乗っています。宗族という言葉には一般的な一族という意味がありますが、中国大陸に存在する特徴的な集団としての呼び名としても有名なようです。この中国の宗族には宗法(そうほう)という規則があって、一族の人々はそれに従い、この宗族という集団の秩序が維持されました。

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今回は中国大陸の古代の王朝である周王朝の仕組み、封建制度について取り上げました。以前はその前に大陸に存在していた王朝、殷が滅びた理由を記事にして取りあげましたが、そのあとにすぐ周王朝が滅亡した話を取り扱うのは話が急すぎますし、周王朝の統治の仕方については特徴があったということなので確認してみようと思い今回のようなテーマの記事を作ってみた次第です。地元の有力者だからという理由で領地の支配を任せる場合と自分と同じ一族の人物に領地の一部の支配を任せるという場合を比べれば、一族に任せた場合のほうが王様との関係も緊密になりそうな気も確かにします。実際血縁関係にある人に地方の支配を任せるというやり方は我が国の鎌倉時代や江戸時代でも実践されていましたよね。鎌倉時代の後のほうになると北条家一門の人々が日本各地の領地の支配に関わっていたようですし、江戸時代にも日本全国にたくさん藩というか国が存在したわけですが、多くの国で松平姓や徳川姓の方々が領主、お殿様を担当していました。その一方安土桃山時代に勇名を馳せた武将が改易(国の取り潰し)に追い込まれたりしています。江戸幕府としても血縁関係のある人物に地域の支配を任せた方が安心といった思惑があったということなのでしょう。平安時代の源氏や平家のような一族内で権力闘争をするような話もありますが、全く血縁関係が無い人よりは一族の人のほうが信用できるという考え方は時代や国にとらわれないものなのかもしれません。ただ周のこのような治めかたは後々地方の勢力が力を持つ結果となり、勢力同士が覇を競って争う要因になったという見方もあるようです。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではshan2さんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

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封建制度を採用していた江戸幕府の統治について触れている話「大名の改易で多かった理由には何があったのでしょう」はこちらです。

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