隋王朝が滅亡した理由は何だったのでしょう
隋が滅亡した理由
中国大陸の古代の出来事や非常に古い時代に存在した王朝の歴史、久々に中国大陸の広大な範囲を統一した王朝である隋の話について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では中国大陸の南北朝時代を終わらせ、数百年ぶりに大陸の広い範囲を統一した王朝である隋が滅亡してしまった理由について自分なりに書いてみたいと思います。隋王朝の最初の皇帝、文帝(ぶんてい もともとの名前は楊堅ようけん)さんは北周(ほくしゅう)の王朝の皇帝(皇帝が本心からか、渋々だったのかは置いといて)から皇位を禅譲(ぜんじょう)、譲ってもらい隋王朝を建国します。これが紀元後581年でした。建国した後に大陸を流れる大河、長江の南側にある国、陳(ちん)王朝に侵攻してこの国を倒すことに成功。中国大陸統一を成し遂げました。これが589年でした。大陸を統一することが出来た大国です。強いに決まっていますので、さぞ長い期間この国は繁栄したのだろうと思いきや、この王朝の滅亡した年は紀元後618年。建国から40年足らず、半世紀も経たずに姿を消すことになるのでした。初代皇帝の文帝さんは病死とも後継ぎである次男に殺害されたとも言われています。亡くなったのは紀元後604年。二代目の皇帝は文帝さんの次男である煬帝(ようだい)さん。この方が皇位にある時に隋は傾き滅びることとなります。煬帝さんは配下の者に命を奪われてしまったのだそうです。皇帝の権威は大変下がってしまっていたのですね。煬帝さんの次の代の皇帝に祭り上げられた人物が祭り上げた人物に皇位を禅譲したという事実もあり、禅譲した時点をもって隋が滅亡したとも言えるのですが、煬帝さんが殺された時期(618年3月)と三代目に祭り上げられた皇帝が禅譲した時期(同年6月)に大きな隔たりはありません。しかしどうして二代目の皇帝が殺されたり、三代目の皇帝が禅譲するようなことになってしまったのでしょう。隋王朝内の様々な場所で反乱が発生してしまうようになり、中央の政権はこの反乱を制圧することが出来なくなるほど弱体化してしまいました。反乱が拡大しても煬帝さんは反乱勢力から避難するくらいのことしかできず、事態を収束させるための有効な手を打つことが出来ませんでした。そんな煬帝さんを見限った家臣が国の乗っ取りを企て、煬帝さんの命を奪ってしまいます。また、反乱を起こした勢力が次の皇帝として皇族のお一人(煬帝さんの孫)を勝手に人選し三代目の皇帝として祭り上げるという動きに出ました。祭り上げられた三代目の皇帝に政治をおこなう権限も軍を動かす権限もなく、反乱勢力の指導者から言われるがまま、一旦ついた皇位を禅譲することとなってしまいます。おまけに禅譲した後、三代目の皇帝は新皇帝に命を奪われてしまいました。直接的な滅亡の理由は反乱勢力に追いつめられたからということになります。
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反乱頻発の理由
どうして国内で反乱がたびたび起こるようになってしまったのかについては、他国への遠征が関係していると指摘する見方が多いです。隋が遠征した国として有名なのは高句麗(こうくり)。朝鮮半島にとどまらず旧満州地域の一部まで領土としていた大きな国です。この国に対し侵攻したのは煬帝さんになってからということではなく、初代の文帝さんの時にも戦をしていましたが、本格的に高句麗を攻めたのは煬帝さんの代になってからということのようです。隋が高句麗を攻めたのは高句麗が突厥という別の国と同盟を結んで隋を挟み撃ちするような状況を避けたかったからといった事情や朝鮮半島に存在していた他の国、百済(くだら)などから隋に支援要請があったからと見られています。朝鮮半島の百済や新羅(しらぎ)は隋に従属する関係にありました。そういった従属国からの要請があれば宗主国の隋としては立場上軍を派遣せざるを得ないのでしょう。高句麗との戦に勝利するため大変な数の兵員が隋から派遣されることとなりました。100万人を超える軍勢だったそうです。それほどまでの大軍を派遣して実施した遠征の結果は・・・、失敗に終わってしまいました。高句麗軍が結果的に隋軍を撃退し、煬帝さんの代の一回目の遠征は終了。隋よりも小さな国を相手にしての戦で隋が敗れたことは隋国内にも当然知れ渡ることになります。隋の中央政府に支配されることについて不満を持っている人たちの中には隋の軍事力は大したことないと侮る人もいたことでしょう。汚名を返上したい煬帝さんはまた高句麗に遠征をおこないますが高句麗を攻めている最中に隋の国内で反乱が発生し遠征どころではなくなり、中断して軍勢を早急に撤収しました。二回目の遠征でも結局は高句麗を攻め滅ぼす、あるいは降伏させるような戦果をあげることが出来なかったわけです。これに懲りず煬帝さんは三回目の遠征を実施し高句麗の王様は一旦降伏の姿勢を示します。結果に満足した隋側は軍を撤収。高句麗に対し従属国であることを示すために隋に朝貢するよう要求しますが高句麗はその要求に従いませんでした。だまされた形となった煬帝さんは再度の高句麗遠征を決断するも、その時には隋の軍勢は消耗しており結局四回目の遠征を実現することが出来ませんでした。繰り返されてきた遠征は一般の人々に兵役、労働力提供(軍需物資運搬のための運河建設)という形で大きな負担をかけることとなります。遠征が農民による反乱の原因となってしまいました。
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費用のかかる事業
滅亡の原因としてよくあげられる高句麗遠征の他にも運河建設が人々に大きな負担となったことが指摘されることもあるようですし、運河の他にも宮殿の建設や国道の整備といったことも手掛け、煬帝さんの時代には国のお金をたくさん使ったそうです。運河は初代の文帝さんの時にも建設されていますが、運河の長さを見ると文帝さんの代の運河建設に比べて煬帝さんの時代の運河建設は非常に長距離となっています。文帝さんの時代に建設された広通渠(こうつうきょ)や山陽瀆(さんようとく)といった運河は煬帝さんの時代に建設された運河、通済渠(つうさいきょ)、永済渠(えいさいきょ)の四分の一にも満たない距離となっています。他にも煬帝さんは広通渠の二倍以上の長さはあるであろう江南河(こうなんが)と呼ばれる運河も建設しています。文帝さんと煬帝さんとの間では運河建設の負担の大きさに相当な違いがあると思われます。特に、煬帝さんが建設を指示した永済渠は前の項目で触れた高句麗遠征のために必要な物資を運搬することが目的だったわけで一般の人々に直接的な恩恵はありませんでした。100万人以上の人々が永済渠建設のために駆り出されているのですから負担が大きいのは当然です。政権の出費が多いと、それをまかなうために人々から徴収する税負担は当然重くなります。土木建設で労働力の提供を民衆に要求するのと同時に生産される農産物などにかかる税負担が重くなるのは、一般の農民の立場から見れば無理な要求というものでしょう。そうした大規模事業が繰り返される中、煬帝さんは100以上の部屋があるような大変豪華な船や数百頭の馬が引くような移動式の宮殿なるものを造り、膨大な人員を引き連れて巡幸(じゅんこう 簡単に言えば旅行や視察のようなものでしょうか)し自己の影響力を誇示したと言われています。やることのスケールの大きさに周辺諸国が恐れをなしたという効果もあったそうですが、重税を負担しなければならない自国民からは恨まれてしまう理由にもなってしまいます。初代の文帝さんは節約を重んじたと言われていますので、同じ国の皇帝ではあっても初代の文帝さんと二代目の煬帝さんとではやっていたことに相当な開きがあったと言えるのでしょう。
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今回は隋王朝が滅亡した理由について一部取り上げました。隋王朝がおこなった政策として高句麗遠征や運河建設が大変有名なようなのですが、自分が調べられる範囲でそれぞれの政策について一つずつ記事にするのはなかなか難しく、結果的には前回の記事で隋王朝を建国した楊堅さんに関する記事を作り、今回ではこの国が滅びてしまうことをテーマにしています。隋王朝の歴史は本文でも書いた通り短いため、記事二回で終わってしまうのも仕方が無いのかなという気もします。隋王朝が滅んだ直接の要因は拡大する反乱勢力を撃退できなかったからなのですが、反乱がおきた理由は高句麗遠征、大規模すぎる土木事業、中央政府、特に皇帝の豪奢な振舞い、そのような政策、散財に伴う労働力の徴発(強制的な取り立て)や重税の徴収、その結果としての困窮者の増加、中央政府に対する反感の増大ということなのでしょう。初代皇帝文帝さんの時に国内で反乱が拡大しなかったのは一般の人々に許容できないほどの負担が課せられていなかったからという見方も出来るのかもしれません。今回の記事を作るために調べている中で文帝さんも、煬帝さんも外戚や宦官や通常のお役人たちに政治を任せきりといった内容は見かけませんでしたので、皇帝親政ということでは共通していたのでしょうが、おこなった政策の中身の違いによって結果が大きく異なっています。君主が直接政治をおこなうというのは良い時はかなり良くても、ひどい時には一般の人々が大変な目に遭うので普通の国民の立場から考えると、安定した政治の仕組みではないよなぁと強く感じました。かといって有能な人物に政治を全部任せることにしたとしても、いつの間にか実権を握られ国を乗っ取られてしまうというのも困るでしょうし、政治のどれくらいの割合を有能な人材にまかせるか、さじ加減が難しそうです。煬帝さんの代になって政策も変化し、このままいくと王朝が傾いてしまうと心配したのでしょう、どの政策についてなのかはわかりませんが煬帝さんを諫(いさ)める家臣もおられたそうです。陛下のあまりにも贅沢な国費の使い方を改めるべきですと言ったのかもしれません。しかしそのように意見する者に対し、煬帝さんは耳を傾けることなく、時にはそういった家臣を処刑するような行為に出たこともあったのだそうです。そうなってしまうと国の進路を修正できるような人は誰もいなくなってしまうのでしょうね。良い皇帝、君主、指導者であるための条件の一つは家臣、部下の諫言(かんげん)や在野の人々の意見にきちんと耳を傾ける度量の広さなのだろうと感じます。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。
隋よりもさらに古い王朝が滅亡した出来事について触れている話「殷王朝が滅亡した理由は何だったと言われているのでしょう」はこちらです。
三国志にも出てくる大国が滅亡した出来事について触れている話「三国時代の強国『魏』が滅亡した理由は何だったのでしょう」はこちらです。
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