中国大陸で唐王朝を建国した初代皇帝について

中国大陸で唐という国を興した初代皇帝

古代の中国大陸で発生した出来事や大陸にかつて存在した王朝の歴史、あるいは長い期間繁栄した大陸の大国、唐について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では久々に長江を境に南北に分かれて別の国が存在していた時代を終わらせた国、隋が滅亡したことで、誕生することとなった唐王朝の初代の王様、皇帝について自分なりに書いてみたいと思います。唐の最初の皇帝は李淵(りえん)という人です。高祖(こうそ)とも呼ばれるのですが、こちらの名前は李淵さんが亡くなった後に建設された慰霊のための施設で使用された名前です。李淵さんが唐を建国したのは紀元後618年と言われています。皇帝の地位にあったのは626年まででしたが、この時にお亡くなりになったわけではなく、次の代に皇位を譲った後もしばらくはご存命でした。635年に亡くなっています。李淵さんが皇帝の時代の間に唐の国としての枠組みが定められていきましたが、大まかに見て隋の時代の仕組みが引き継がれているようです。民衆に対して課す税の仕組みである租庸調(そようちょう)や土地を同じように分配して農作業に従事するよう定める均田制(きんでんせい)、土地を国から分配された農民の中から兵役につくものを徴兵する府兵制(ふへいせい)も継続していました。地方を統治する仕組みも隋の時代のように州、県という行政区域を定める州県制を採用しています。唐という統一国家を建国した記念に、漢の時代に造られた通貨に代わるものとして新たな銅銭である開元通宝(かいげんつうほう)を鋳造するよう命じたのも初代皇帝、李淵さんでした。この李淵さんの時代には広い地域を支配したとはいっても隋王朝末期の動乱後、まだ唐に従わずにいた勢力も存在していたため、完全な支配を実現するため残存していた勢力を制圧することにも力を入れなければなりませんでした。李淵さんのライバルには隋の二代目皇帝煬帝さんに信頼されていた家臣である王世充(おうせいじゅう)さんや農民反乱の指導者として勢力を拡大していった竇建徳(とうけんとく)さんといった人たちがいましたがこういった人たちの勢力はやがて唐の軍に倒されていきます。こうして唐の治世の礎を築いた李淵さんなのですが、あまり穏便ではない形で皇位を譲ることになります。ちなみに皇位を継承したのは李淵さんのご長男ではなく次男のかたでした。

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皇帝になる以前の李淵さん

李淵さんはもともとどのような立場の人物だったのでしょう。隋の末期に頻発する反乱に参加した人物ではあるのですが、農民のような立場の人ではありませんでした。李淵さんの先祖は非常に身分の高い軍人として北周(ほくしゅう 隋が誕生する以前に大陸の長江から北半分を支配していた王朝)に仕えていました。李淵さんの祖父が死去した時に北周は死亡した祖父に対し唐という領地の領主という意味の称号、唐国公を与えたそうです。旧王朝の名門の家柄であることから隋王朝となった後も中央政権から様々な役職を与えられることとなりました。李淵さんという名前からは普通の漢字でもありますし、漢民族的な印象を個人的には持ってしまうのですが、この方は五胡十六国時代以降中国大陸に勢力を伸ばした民族、鮮卑(せんぴ)という民族の人物であり、漢民族の文化に深く影響を受けてはいるものの、生粋の漢民族ということではないという見方が強いようです。そういった点では隋王朝の皇族の方々と同様です。ただ、鮮卑の人々も当時の時点では相当漢民族化していたと見られています。李淵さんは隋王朝の時代に高句麗遠征の監督の役目を中央政府から命じられていたりもしました。隋のお役人として働いていたわけです。しかし隋の末期には各地で反乱も頻発して王朝の権威も落ちる一方。反乱が起きていても隋の皇帝、煬帝さんは有効な手段を講じることなく自らは安全な地で過ごしていました。李淵さんは現在の山西省にあたる地域で上級のお役人として働いていましたが、このような情勢となり李淵さんの次男、李世民さんが様々な根回しをして李淵さんと親交のある人々を動かし李淵さんに反乱を起こすよう促したと言われています。また、李淵さんの配下の者が隋の北側で隣接していた国、突厥(とっくつ とっけつ)に対する侵攻を中央政府から命じられていたものの、失敗に終わり失敗の責任を李淵さんに問う動きが中央政府内で出たことで、李淵さんも一気に反乱に傾いていったようです。李淵さんは北の国、突厥と連携し援軍を得ることが出来ました。また、当時もっとも大きな反乱勢力を形成していた李密という人物と同盟を結びます。李密さんは洛陽(らくよう 現在の中国河南省にあたる地域に存在する大都市。長安よりも東に存在)方面から長江流域にいたる地域で隋の軍勢と戦うこととし、李淵さんの軍は隋の都、大興城(だいこうじょう ほぼ長安と同じ場所にあった都)に攻め込むこととなりました。大興城を目指して進軍する過程で民衆から李淵さんの軍に参加する者もどんどん出てきて、都に到着した時は大軍となります。とうとう李淵さんたちは隋の都を制圧しました。

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禅譲

都、大興城には皇帝、煬帝さんはいませんでした。反乱が深刻になった後、煬帝さんは別の土地に設けられた宮殿に避難、当時は長江下流域の都市、江都(こうと 現在の江蘇省、揚州)に滞在していました。しかし李淵さんが制圧した当時の都には煬帝さんがいない代わりにと言っては何ですが、楊侑(ようゆう)という皇族が避難もせずとどまっていました。この楊侑さんは皇帝である煬帝さんのお孫さんです。李淵さんは武力を背景にしてこの楊侑さんを勝手に煬帝さんの代わり、代理の皇帝としてしまいます。そして江都で煬帝さんが家臣の者に暗殺された報が都に伝わると、代理皇帝から李淵さんに皇位を譲る行為、禅譲(ぜんじょう)をするよう代理皇帝に圧力をかけます。拒否できるような状況でもないため楊侑さんは李淵さんに要求されるままに禅譲のしきたりを実施し、こうして隋は滅び、李淵さんを初代皇帝とする新しい王朝、唐が誕生することとなりました。李淵さんの要求を受け入れ皇位を譲ってくれた楊侑さんですが新皇帝となった李淵さんから領地を提供され、その領地の領主に任命されます。皇位を譲ってくれた手前、新皇帝からそれなりの配慮をされているようにも見えますが、皇位を譲った翌年に楊侑さんは命を落とすことになります。李淵さんのお子さん、李世民に殺害されてしまいました。李淵さんの命令ということなのでしょう。皇帝に即位した李淵さんは先の項目で触れたような政策を実施したり唐王朝の正統性を認めようとしない勢力を討伐していきます。ようやく言うことを聞かない勢力をあらかた倒した時期である、紀元後626年、皇帝に即位してから8年後、李淵さんは皇位を退いてしまいました。本人の意向というよりは次男である李世民さんの要求によって強引に退位させられてしまったということのようです。李世民さんには兄である皇太子、李建成(りけんせい)さんがおられましたが、李世民さんがこのお兄さんと世民さんの弟さんを殺害するという事件が起きてしまいます。李世民さんの名声に不安を感じた皇太子が李世民さんの有能な家臣を世民さんから引き離して力を削ごうとしたり、世民さんを暗殺しようという進言を受けたりしていたのだそうで、李世民さんとしては命を取られる前に先手を打ったという結果の兄弟殺害でした。玄武門の変と呼ばれている事件です。この事件の時に世民さんは皇帝の李淵さんを幽閉。幽閉されてしまうくらいなのですから実際の権限は世民さんの手にあったということなのでしょう。李淵さんは世民さんに皇位を譲り、退位。太上皇という立場ではあったものの政治は二代目皇帝となった李世民さんがおこなったため大きな権限を振るうようなこともなくなりました。世民さんに譲位した9年後の紀元後635年に李淵さんは死去されます。71歳でした。

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今回は日本とも遣唐使という形である程度関係のあった中国大陸の大国、唐王朝の建国者について取り上げました。先日の記事で隋王朝の滅亡について触れましたし、順番から言っても次の中国大陸の歴史に関係する記事のテーマは唐の初代皇帝かなぁと思い、今回のようなテーマとしている次第です。隋については推古天皇時代の日本と接点もありますしそれなりに印象も残っている王朝ですが、あっけなく滅亡してしまったことも、次に唐が誕生するいきさつもよくわからないでいました。隋やさかのぼって晋、魏のように結果的には皇位の禅譲が反乱勢力の中心人物である李淵さんにおこなわれはしましたが、王莽さんの新という王朝が反乱によって滅ぼされて後漢王朝が誕生したような要素も含まれる経過だったようです。ただ、後漢のような、漢王朝から皇位を奪った人物を倒して漢王朝を復興するという形とは異なり、隋王朝の役人の立場の人が反逆して隋を滅ぼしたことになるので道義的には決して褒められるような行為ではないということになるかと思います。皇位を禅譲した人物を自分の息子を使って殺害するというのは、何とも冷酷としか言いようがない感じもしますし、今回の記事を作っていて初めて知りましたが、李淵さんの息子、次男の李世民さんは兄弟の命も奪っています。国を動かす権限を持つということは大変な力ですので、その点は魅力と言えるようにも感じますが、その周りでは血なまぐさいことが起きますし、いいことばかりではないということを思い知らされます。李淵さんが反乱に身を投じたきっかけとして突厥侵攻作戦の失敗とそれに関する隋中央政府からの責任追及の恐れがあったことに本文中で触れましたが、李淵さんに対しどういったお仕置きが待っていたのでしょう。処刑のような罰だったのでしょうか。以前、秦王朝の末期に、後の漢王朝を創ることになる劉邦さんが秦の政府から出た命令をやむを得ず守ることが出来ず、本来なら厳しい罰を受けなければならない状況になったことで反乱活動に参加したという話を、以前の記事作成の過程で見聞きしました。李淵さんの話も何かそれと似ているような気がします。厳しすぎる刑罰というのはやっぱり反乱を惹起する強力な要因になりかねないのかもしれませんね。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。

別の王朝の残念な終焉について触れている話「大国、前漢が滅亡してしまった理由は何だったのでしょう」はこちらです。

日本の政権が実施した遣唐使について触れている話「古代の日本が遣唐使を派遣した目的は何だったのでしょう」はこちらです。

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